「帝都電鉄」の版間の差分
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帝都鉄道は厳しい資金難の中で開業し、レールも国有鉄道の中古品を利用する有り様だったが、当初から高速鉄道としての設備を備えていた。車両はステップを持たない17メートル級の半鋼製車体で、総括制御(連結時に後方の車両も遠隔操作すること}も可能であった。当時、最新の設備であった自動ドアも備えていた。 | 帝都鉄道は厳しい資金難の中で開業し、レールも国有鉄道の中古品を利用する有り様だったが、当初から高速鉄道としての設備を備えていた。車両はステップを持たない17メートル級の半鋼製車体で、総括制御(連結時に後方の車両も遠隔操作すること}も可能であった。当時、最新の設備であった自動ドアも備えていた。 | ||
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*昭和八年(1933) | *昭和八年(1933) | ||
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**8月1日 [[帝都電鉄]]線[[渋谷駅]]~[[井ノ頭公園駅]]営業開始(12.1km) | **8月1日 [[帝都電鉄]]線[[渋谷駅]]~[[井ノ頭公園駅]]営業開始(12.1km) | ||
**8月5日 [[小田原急行鉄道]]、帝都電鉄と連帯運輸開始 | **8月5日 [[小田原急行鉄道]]、帝都電鉄と連帯運輸開始 | ||
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| 高井戸駅 || 杉並区上高井戸四丁目1202 || 8.838.36 | | 高井戸駅 || 杉並区上高井戸四丁目1202 || 8.838.36 | ||
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| 久我山駅 || 杉並区久我山三丁目483 || 10.365.22 | | 久我山駅 || 杉並区久我山三丁目483 || 10.365.22 | ||
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| 三鷹台駅 || 北多摩郡三鷹村大字牟礼神田川通152 || 11.501.52 | | 三鷹台駅 || 北多摩郡三鷹村大字牟礼神田川通152 || 11.501.52 | ||
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2018年8月26日 (日) 23:18時点における最新版
帝都電鉄は東京郊外鉄道から改称された鉄道会社であり、現在の京王井の頭線の土台となった。昭和八年の開通により下北沢地域は渋谷とのつながりがさらに強化されたのみならず、小田原急行鉄道との交差により下北沢Xとも呼ばれる環境が生まれた。渋谷からも新宿からも電車一本で行ける交点となったことで、その後の下北沢地域の発展の土台となったと認識されることが多い。
概要
かつて渋谷急行電気鉄道が有していた渋谷~吉祥寺間の路線計画を継承し、東京郊外鉄道が昭和六年に工事着手した。ところが昭和七年に大東京市制が敷かれ、路線の大半が渋谷区・目黒区・世田谷区・杉並区として東京市内に含まれることになったため、「郊外」の称が合わなくなり、「帝都」電鉄と改称したものである。
昭和八年に渋谷駅~井の頭公園駅まで開通、昭和九年には吉祥寺駅まで全通した。
軌間1067mm、架線電圧1500Vで建設。この時点では旧・東京山手急行電鉄の環状線計画はまだ維持されており、西松原(現・明大前)駅付近では環状線の線路を並行させるためのスペースが確保された。[1]帝都鉄道は厳しい資金難の中で開業し、レールも国有鉄道の中古品を利用する有り様だったが、当初から高速鉄道としての設備を備えていた。車両はステップを持たない17メートル級の半鋼製車体で、総括制御(連結時に後方の車両も遠隔操作すること}も可能であった。当時、最新の設備であった自動ドアも備えていた。
開業後は永福町の大宮公園を直営するなど行楽輸送にも努めた。沿線では急速に宅地化も進んだ。作家の宮脇俊三は、幼少期に同線の開業と共に永福町に転居してきたという。宮脇の父は衆議院議員であったが、ほかにもホワイトカラーなど新中間層と呼ばれた新しい住民が流入し、井の頭線は地元の農家の人々に「都会の電車」を印象づけた。
— 『週刊 歴史でめぐる鉄道全路線 大手私鉄 No.17 京王電鉄』(朝日新聞出版、2010)
しかし、当時の沿線人口はまだ多くなく、経営も困難であったため、昭和十五年に共通の親会社(鬼怒川水力電気株式会社)を持つ小田原急行鉄道に合併され、同社の帝都線となった。これ以降、大東急の時代が終わるまで、下北沢駅を通る二本の鉄道は同じ会社の路線となった。戦後、井の頭線は京王に組み込まれたが、その後も長らく駅内に連絡改札がなく、小田急線・井の頭線の両線を自由に行き来できたのはその名残である。
年表
- 昭和五年(1930)
- 昭和六年(1931)
- 昭和七年(1932)
- 10月 大東京市制が敷かれ、渋谷・目黒・世田谷等が東京市域に編入される。このため、三鷹村・武蔵野町を除く郊外鉄道の区間が東京市内となり、「郊外」の称が合わなくなる。
- 昭和八年(1933)
- 昭和九年(1934)
- 昭和十年(1935)
- 昭和十二年(1937)
- 昭和十四年(1939)
- 9月20日 玉電ビルと帝都電鉄線との連絡橋開通
- 昭和十五年(1940)
- 昭和十六年(1941)
以後の流れは帝都線を参照のこと。
開業当時の駅
駅名 | 所在地 | 換算中心粁程 |
---|---|---|
渋谷駅 | 渋谷区大和田町1311 | 0.057.33 |
神泉駅 | 渋谷区神泉町17 | 0.651.78 |
東駒場駅[2] | 目黒区駒場町864-4 | 1.377.80 |
西駒場駅[3] | 目黒区駒場町862-3 | 1.760.42 |
池ノ上駅 | 世田谷区北沢二丁目79[4] | 2.534.51 |
下北沢駅 | 世田谷区北沢三丁目1041[4] | 3.121.93 |
代田二丁目駅[5] | 世田谷区代田二丁目866[4] | 3.683.18 |
東松原駅 | 世田谷区松原四丁目170 | 4.178.06 |
西松原駅[6] | 世田谷区松原三丁目643 | 5.063.20 |
永福町駅 | 杉並区永福町45 | 6.131.64 |
西永福駅 | 杉並区永福町186 | 6.909.15 |
浜田山駅 | 杉並区上高井戸四丁目935-4 | 7.667.60 |
高井戸駅 | 杉並区上高井戸四丁目1202 | 8.838.36 |
冨士見ヶ丘駅[7] | 杉並区久我山一丁目355 | 9.552.50 |
久我山駅 | 杉並区久我山三丁目483 | 10.365.22 |
三鷹台駅 | 北多摩郡三鷹村大字牟礼神田川通152 | 11.501.52 |
井之頭公園駅[8] | 北多摩郡三鷹村大字牟礼字井之頭水門310 | 12.235.78 |
吉祥寺駅 | 北多摩郡武蔵野町大字吉祥寺字本田南2084-1 | 12.869.46 |
関連項目
注釈
- ↑ 玉川上水陸橋参照
- ↑ 昭和十年8月10日に東駒場駅から一高前駅に改称。
- ↑ 昭和十二年(月日不明)に西駒場駅から駒場駅に改称。一高前駅と駒場駅は昭和四十年に統合されて駒場東大前になる。
- ↑ 4.0 4.1 4.2 北沢二丁目、北沢三丁目、代田二丁目等は現在も存在するが、この当時とは範囲が異なっているため、注意が必要である。
- ↑ この時期の住所表示では代田二丁目に属していた。現在の新代田駅。
- ↑ 昭和十年2月8日に西松原駅から明大前駅に改称。同時に京王電気軌道の松原駅が移動してきて、共同利用の駅となった。
- ↑ 後に「富士見ヶ丘駅」の表記に変わっている。
- ↑ 昭和二十年ごろに「井ノ頭公園駅」、昭和三十五年ごろに「井の頭公園駅」の表記になった。
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