「荏原郡」の版間の差分

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(ページの作成:「荏原郡武蔵国に属する郡である。下北沢地域はこの郡の木田郷付近に該当すると考えられる。「荏」は荏胡麻(…」)
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2018年8月12日 (日) 23:42時点における版

荏原郡武蔵国に属する郡である。下北沢地域はこの郡の木田郷付近に該当すると考えられる。「荏」は荏胡麻(エゴマ)を意味し、荏胡麻が栽培されている原というのが郡名の由来であろう。[1]

武蔵演路 三(大橋方長)

荏原郡 東は海、西は世田ヶ谷代田を限りとし、多磨郡に接する。南は多摩川を境とし、北は渋谷川流新堀を限りとする。

和名抄諸国郡郷考 六 武蔵(富永春部)

荏原 えはら 今、江戸麻生青山の辺を言ったという。(中略)小山田与清は次のように言った。江戸という名の由来は、荏処の略語であって、よい荏の生える地だからである。もとは荏原の郡に属していたのであろう。国郡の境は時代によって変わるので、後の豊島郡に属するところも荏原と行ったのも、荏の生え並んでいる様子をいったことばである。安芸国高田郡麻原郷があるのも思い合わせるべきである。県居翁(※賀茂真淵)が江の門をかたどったものだと言われたのは作り事であって、このあたりに江の門と言うような地形は昔もなかったし、今もない。それなのに、古学に心を寄せる人たちは大江の御門とさえ言っているようなのは、根本を正すことのない誤った考えだ。

新編武蔵風土記稿 三十九 荏原郡 総説

新編武蔵風土記稿 巻之三十九 荏原郡 正保年中改訂図
新編武蔵風土記稿 巻之三十九 荏原郡 元禄年中改訂図

荏原の郡は、その名義の起こった理由が明らかではない。和名抄を見ると、郡中に荏原郷があるため、郷から起こった郡名なのかもしれない。これは豊島郡に豊島村、入間郡・高麗郡に高麗本郷がある類か。また、いにしえ武蔵野の中でもこの地は荏草を多く植えたところなのでこう言ったとも言い伝えている。相模国鎌倉の郡に荏草の郷などもあるため、その伝はもっともなようだが、正しいかどうかはわからない。当国幡羅郡、備中国後月(シヅキ)郡、伊予国浮穴郡にも荏原郷がある。はたして荏の多いために名づけたのだろうか、また別に理由があるのかわからない。

この郡名は、国史等にあらわれるものを未だ見たことがない。万葉集に、天平宝字七年乙未二月二十三日、武蔵国部防人安曇宿禰三国がまいらせた和歌の作者に、荏原郡物部歳徳、同郡上丁物部広足が詠んだものを載せている。これらは古い書にあらわれた最初のものであろう。和名抄に江波良(えはら)と読みが書かれているので、読み方は古今同じであると思われる。

考えるに、この郡はむかし田が多いところだっただろう。和名抄に載っている郷名の多くに田がついている。蒲田、田本、満田、御田、木田、桜田である。今は田地が少ない郡であるが、桑田の変は後の世からはわからないことである。

郡の方位は図にも表すように、おおよそ東の方は品川の海辺を境界とし、南に至っては多摩川の流れを追って橘樹郡の隣となり、西の方に当たっては多磨郡を境とし、北は豊島郡に及んで、江戸の地に接している。郡の周囲をいえば、およそ15里に及ぶ。そのうち、豊島郡にかかるのが3里半ほど、海浜に沿うのがおよそ4里、橘樹郡に接しているところがおよそ4里半、多磨郡は3里あまりである。東西へ2里半ほど、多磨郡の境の瀬田村から、海岸の方大井村に至る。南北へは3里に近く、橘樹郡の境の古川村から豊島郡の境の目黒村に及ぶ。巽(東南)から乾(北西)へは4里半、多磨郡の境の松原村から海辺の方の羽田村に至る。艮(北東)から坤(南西)の方へは2里半、豊島郡の境の上高輪村から橘樹郡の境の下野毛村に至る。

郡中の地勢について、東の方は海浜に近寄ったところでは3分の1が平地で、残りはみな水田である。土性も真土がちである。西北の方へ続いては、村々すべて高低の丘続きなので、田畑・原野・山林が多く、土性も平地の方に比べると大きく異なっていて、野土・黒土のため、穀物によろしくない。詳細にいえば、大井村から南の方、新井宿・市之倉・堤方・池上の村々はみな丘続きである。また、池上村から南西の方も、久が原峯村・鵜ノ木村・治部村に至ってはことに小山がちである。ここから海浜の方へは一円平地で会って、数十村ある。そのうち大井村はもっとも海岸に沿っている村であるが、その中に小高い丘もある。ここから海際までおよそ7~8丁ほどで、広平な地である。この村々から西北の方は、みな丘続きであって、郡の境に至る。また、目黒川の左右に水田があって、その幅は40~50丁ほどであり、品川の方の海浜まで行程一里あまりも続いている。この目黒川から豊島郡に寄った丘には、諸家の下屋敷、あるいは商家など多く、江戸の方につながっている。(中略)また風俗なども他郷と異ならないため、さして記すべき事もない。

和名抄に載っている八郷と駅家

  • 蒲田:加萬田(かまた)と註す。今、北蒲田村・新宿村と分かれて2村あるが、まさしくこの場所であろう。三代実録に蒲田神社が載っている。これもこの地に建っている神社であろう。
  • 田本:多毛止(たもと)と註す。今、この郷名は村名・小名などに残っていない。
  • 満田:上音下訓と註す(※マンた)。武蔵国風土記に「満田郷 公穀372束五字田、梅・柑等を出す」云々とある。また満田寺といった寺もこの郷中にあったという。今、その場所を伝えない。
  • 荏原:江波良(えはら)と註す。これもどの辺か明らかではない。今は村名にも残らない。
  • 覚志:加々止(かかし)と註す。この郷名もその名のあることを聞かない。
  • 御田:読み方の註がない。風土記に「御田郷あるいは箕多 公穀367束 仮粟319丸」という。今、三田という地がある。また、いにしえ馬込領小山・谷山両村の地頭・高木喜左衛門正永に賜った寛永二年の御朱印に「武蔵国荏原郡弥陀郷百石」云々とある。文字は違っているが、すなわち御田郷のことであろう。そうであれば、小山谷山村あたりまで及んだ郷名であって、寛永の頃もなお呼ばれていたことになる。
  • 木田:木多(きた)と註す。今、上北沢・下北沢の両村があるのがこれだという説もある。この説は北ということから起こったものとも思われるが確証はない。
  • 桜田:佐久良田(さくらた)と註す。風土記に「桜田郷 公穀463束三字田。桜田という号はその郷の丘及び野に桜の木が多いためである」云々とある。今、豊島郡に属す。その地にて区別できる。
  • 駅家:今の荒井宿はもしかすると古の駅家のあとであろうか。荒藺崎などの地名を考え合わせればそうではないかと思われるが、証拠はないので、強く主張はしない。

注記

  1. 以下の現代語訳はすべて木田沢ダイタによる。

歴史的行政区画(世田谷地域も含む)