代田村

提供: 下北沢百科

代田村(だいたむら)は、現世田谷区の北東部に存在した村である。現在の地名では大原代田に該当し、さらに代沢の一部に飛地である下代田エリアが存在する。

略年表

この年表は、世田谷区教育委員会『世田谷の地名』(昭和五十九年)「代田略年表」をもとに編集した。

戦国~安土桃山時代

  • 天正十八年(1590年)
    • 4月:世田谷城開城し、城主吉良氏朝が下総国千葉郡生実(おゆみ)に逃れる。
    • 7月:小田原落城、北条氏滅亡。
    • 吉良氏の没落により、その旧家臣である代田七人衆斎田(2家)・清水・秋元・柳下・山田・大場の各氏)が帰農して開墾を始めた。この代田七人衆により円乗院が創建された。

江戸時代

  • 寛永二年(1625年)12月:旗本・竹尾四郎兵衛俊晴が、相模国愛甲郡・大住郡、武蔵国荏原郡、下総国葛飾郡の4郡において采地1770石余を知行された。この中に、池尻村22石4斗、三宿村13石5斗6升、代田村75石が含まれていた。農家7軒、寺1
  • 慶安二年~三年(1649~1650年):『武蔵田園簿』によれば、
     代田村 高75石(内 32石 田方 43石 畑方)竹尾四郎兵衛知行
          外米10俵1斗6升4合 野米  伊那半十郎御代官
  • 承応三年(1654年)6月:玉川上水の羽村~四谷大木戸間の開渠が代田村の北部を通って完成した。
  • 寛文十年(1670年):玉川上水の拡張が行われ、灌漑用にも使用できるようになったため、北沢用水として下流の村々も利用できるようになった。
  • 延宝元年(1673年):次第に来住した商人たちが許可なく耕地を開墾したとして、農民達が勘定奉行に訴を起こした。村内の修験者・正宝院は商人側に組みし、互いに譲らなかった。
  • 延宝二年(1674年):前年の訴えにつき、伊那代官が検地を実施。百姓が許可なく開墾した土地が19町5畝13歩見つかり、この分は旗本領主竹尾氏の支配とは認められず、そのまま商人に与えられ、幕府代官の支配となった。その後も農民と商人の対立は続いた。
  • 元禄八年(1695年):竹尾氏の采地を武蔵国久良木郡・相模国大住郡に写したため、代田村は池尻・池沢・三宿とともに幕府直轄領(天領)となり、幕府代官の支配となった。(元禄の地方直し)
  • 元禄年間:『元禄郷帳』によれば、代田村の石高は533石7斗3升8合
  • 享保元年(1716年)9月:寛永年間に設定された品川・沼部・世田谷・中野・戸田・平郷・渕江・八条・葛西の9領にわたる旧鷹場をあらためて御留野として、同地域より4里~5里の範囲を禁猟区とする触が出された。
  • 享保三年(1718年):江戸近郊9領の鷹場を改めて、品川筋・目黒筋・中野筋・戸田筋・岩渕筋・葛西筋の6筋に改編し、その統制が強化された。世田谷地方は目黒筋に編入され、上目黒村の御用屋敷内に設けられた鳥見役所(通称・お鳥見様)の管轄下に属した。
  • 享保十八年(1733年)12月:真義真言宗円乗院の本尊不動明王像が造立された。
  • 元文年中(1736年~1740年):代田八幡神社の社殿が修造された。
  • 延享二年(1745年)5月:日光門主の下向にあたって、代田村は品川宿戸越組の臨時増助郷を命じられた。
  • 宝暦十三年(1763年)
    • 7月:御城御用螻(鷹の生餌)上納通知が池沢村弥惣兵衛(触次名主)から出る。
    • 8月:駒場原草刈御用につき参集有度旨廻状、池沢村弥惣兵衛から出る。
  • 文明二年(1782年)2月:村の西北端の地(大原2-26-2)に、山城国伏見稲荷大社の神官・羽倉(はぐら)摂津守信邦の直書による羽倉(はぐさ)稲荷神社が勧請された。現在の大原稲荷神社
  • 文政九年(1826年):『新編武蔵風土記稿』脱稿。代田村 民百十軒あり との記載あり。
  • 文政十年(1827年):文政取締改革組合村結成。下北沢・池尻・池沢・三宿・太子堂・上馬引沢・下馬引沢・野沢・若林・代田・松原・赤堤・経堂在家の13か村で下北沢組合とし、下北沢村を寄場村とした。
  • 文久元年(1861年)3月:下北沢組合、豊沢組合(渋谷)・角筈組合(新宿)の3寄場組合村に、大山道の中豊沢村と甲州道中の角筈村に見張番所を設置することを幕府が命じた。これは尊皇攘夷派の不穏な動きに対抗するものである。
  • 文久三年(1863)
    • 2月:英艦隊江戸湾示威回遊。近郊百姓江戸の武家・町人の荷物を預かる。非常大御用として下北沢寄場組合村に人馬差出し、手当金差出し命令。
    • 9月:御鷹野役所兵粮方役所と改称。
    • 10月:下北沢村ほか10か村12人の村役人等、兵粮方御預り御下役を仰せつけられる。
    • 11月:下北沢組合14か村が、兵粮方下役12人の支度料、1人につき4両(陣笠・野袴・半纏・裁付など)につき、30%を各村一律、70%を村高割で負担した。
    • 12月:関東取締出役より、非常時につき組合村1村ごとに小前銘竹槍等用意、5人組の内からもおおよそ10人くらいずつ組分かち定置かれる。
    • 12月:江戸出口宿宿番所の取り締まり強化が図られ、公用私用稼業を問わず、出入りには幕府発行の鑑札が必要になった。世田谷の天領12村に下附された鑑札はわずか82枚で、農民は公私の活動に困った。
  • 元治元年(1864年)
    • 7月:青山道渋谷宮益坂に関が設けられ、鑑札のないものは一切通行ができなくなったため、村々が厳重な抗議を申し入れた。その結果、鑑札は各村名主の発行する木札印鑑によることとなり、増札も若干認められた。
    • 月不明:和泉新田焔硝蔵警備人足差出し、代田村は昼詰3人(うち一人は隔月)、夜詰7人。
  • 慶応二年(1866年)1月:銃隊火人並稽古大隊の備相立る
  • 慶応三年(1867年)
    • 1月:農民御取立相成る。御鳥見役所廃止。
    • 2月:銃隊稽古始め仰せ出される。外国人通行の折、悪口し又瓦礫打ち候こといたすまじきこと。
  • 幕末:代田村 533石7斗3升8合 幕府代官松村忠四郎

明治時代

  • 慶応四年(1868年)
    • 3月:官軍先遣隊が品川宿・内藤新宿に到着。御宿陣人足を差し出すよう命令され、下北沢村は品川宿に16人、内藤新宿に31人の人足を差し出した。また、下馬引沢村に備前藩、三軒茶屋付近に尾州藩の一帯が宿陣し、世田谷15か村・渋谷5か村・上目黒村が人足を差し出した。
    • 5月:新政府により、民政裁判所の管轄となり、武蔵知県事松村長為の支配を受けた。
    • 9月:明治に改元。
  • 明治二年(1869年)
  • 明治四年(1871年)12月:東京府に編入。
  • 明治六年(1873年)3月:東京府大区小区制実施。第七大区第六小区に属する。
  • 明治七年(1874年):戸数103、男258、女258、計516。荷車1、農車6、馬6、牛6、田8町2反9畝15歩、畑87町8反3歩
  • 明治十一年(1878年)11月:郡制実施。荏原郡に属す。
  • 明治十二年(1879年)6月:下北沢村と代田村が連合し、下北沢村に連合戸長役場が置かれた。
  • 明治十三年(1880年):連合村会開設、議員は両村で16人。
  • 明治二十一年(1888年):戸数99、人口587
  • 明治二十二年(1889年)5月:市制町村制施行。池尻・三宿・太子堂・若林・下北沢・代田・経堂在家・世田ヶ谷の8村が合併して新しい世田ヶ谷村が成立。旧村の区域は大字となった。

関連項目

歴史的行政区画(世田谷地域も含む)