荏原郡

提供: 下北沢百科

荏原郡武蔵国に属する郡である。下北沢地域はこの郡の木田郷付近に該当すると考えられる。「荏」は荏胡麻(エゴマ)を意味し、荏胡麻が栽培されている原というのが郡名の由来であろう。[1]

なお、この項では江戸時代以前の武蔵国荏原郡について扱う。明治以降の下北沢地域を中心とした荏原郡については、武蔵知県事品川県・(東京府第七大区第六小区)・東京府荏原郡の各項を参照のこと。

武蔵演路 三

荏原郡 東は海、西は世田ヶ谷代田を限りとし、多磨郡に接する。南は多摩川を境とし、北は渋谷川流新堀を限りとする。[2]

新編武蔵風土記稿 三十九 荏原郡 総説

新編武蔵風土記稿 巻之三十九 荏原郡 正保年中改訂図
新編武蔵風土記稿 巻之三十九 荏原郡 元禄年中改訂図

荏原の郡は、その名義の起こった理由が明らかではない。和名抄を見ると、郡中に荏原郷があるため、郷から起こった郡名なのかもしれない。これは豊島郡に豊島村、入間郡・高麗郡に高麗本郷がある類か。また、いにしえ武蔵野の中でもこの地は荏草を多く植えたところなのでこう言ったとも言い伝えている。相模国鎌倉の郡に荏草の郷などもあるため、その伝はもっともなようだが、正しいかどうかはわからない。当国幡羅郡、備中国後月(シヅキ)郡、伊予国浮穴郡にも荏原郷がある。はたして荏の多いために名づけたのだろうか、また別に理由があるのかわからない。

この郡名は、国史等にあらわれるものを未だ見たことがない。万葉集に、天平宝字七年乙未二月二十三日、武蔵国部防人安曇宿禰三国がまいらせた和歌の作者に、荏原郡物部歳徳、同郡上丁物部広足が詠んだものを載せている。これらは古い書にあらわれた最初のものであろう。和名抄に江波良(えはら)と読みが書かれているので、読み方は古今同じであると思われる。

考えるに、この郡はむかし田が多いところだっただろう。和名抄に載っている郷名の多くに田がついている。蒲田、田本、満田、御田、木田、桜田である。今は田地が少ない郡であるが、桑田の変は後の世からはわからないことである。

郡の方位は図にも表すように、おおよそ東の方は品川の海辺を境界とし、南に至っては多摩川の流れを追って橘樹郡の隣となり、西の方に当たっては多磨郡を境とし、北は豊島郡に及んで、江戸の地に接している。郡の周囲をいえば、およそ15里に及ぶ。そのうち、豊島郡にかかるのが3里半ほど、海浜に沿うのがおよそ4里、橘樹郡に接しているところがおよそ4里半、多磨郡は3里あまりである。東西へ2里半ほど、多磨郡の境の瀬田村から、海岸の方大井村に至る。南北へは3里に近く、橘樹郡の境の古川村から豊島郡の境の目黒村に及ぶ。巽(東南)から乾(北西)へは4里半、多磨郡の境の松原村から海辺の方の羽田村に至る。艮(北東)から坤(南西)の方へは2里半、豊島郡の境の上高輪村から橘樹郡の境の下野毛村に至る。

郡中の地勢について、東の方は海浜に近寄ったところでは3分の1が平地で、残りはみな水田である。土性も真土がちである。西北の方へ続いては、村々すべて高低の丘続きなので、田畑・原野・山林が多く、土性も平地の方に比べると大きく異なっていて、野土・黒土のため、穀物によろしくない。詳細にいえば、大井村から南の方、新井宿・市之倉・堤方・池上の村々はみな丘続きである。また、池上村から南西の方も、久が原峯村・鵜ノ木村・治部村に至ってはことに小山がちである。ここから海浜の方へは一円平地で会って、数十村ある。そのうち大井村はもっとも海岸に沿っている村であるが、その中に小高い丘もある。ここから海際までおよそ7~8丁ほどで、広平な地である。この村々から西北の方は、みな丘続きであって、郡の境に至る。また、目黒川の左右に水田があって、その幅は40~50丁ほどであり、品川の方の海浜まで行程一里あまりも続いている。この目黒川から豊島郡に寄った丘には、諸家の下屋敷、あるいは商家など多く、江戸の方につながっている。(中略)また風俗なども他郷と異ならないため、さして記すべき事もない。

和名抄に載っている八郷と駅家

  • 蒲田:加萬田(かまた)と註す。今、北蒲田村・新宿村と分かれて2村あるが、まさしくこの場所であろう。三代実録に蒲田神社が載っている。これもこの地に建っている神社であろう。
  • 田本:多毛止(たもと)と註す。今、この郷名は村名・小名などに残っていない。
  • 満田:上音下訓と註す(※マンた)。武蔵国風土記に「満田郷 公穀372束五字田、梅・柑等を出す」云々とある。また満田寺といった寺もこの郷中にあったという。今、その場所を伝えない。
  • 荏原:江波良(えはら)と註す。これもどの辺か明らかではない。今は村名にも残らない。
  • 覚志:加々止(かかし)と註す。この郷名もその名のあることを聞かない。
  • 御田:読み方の註がない。風土記に「御田郷あるいは箕多 公穀367束 仮粟319丸」という。今、三田という地がある。また、いにしえ馬込領小山・谷山両村の地頭・高木喜左衛門正永に賜った寛永二年の御朱印に「武蔵国荏原郡弥陀郷百石」云々とある。文字は違っているが、すなわち御田郷のことであろう。そうであれば、小山谷山村あたりまで及んだ郷名であって、寛永の頃もなお呼ばれていたことになる。
  • 木田:木多(きた)と註す。今、上北沢・下北沢の両村があるのがこれだという説もある。この説は北ということから起こったものとも思われるが確証はない。
  • 桜田:佐久良田(さくらた)と註す。風土記に「桜田郷 公穀463束三字田。桜田という号はその郷の丘及び野に桜の木が多いためである」云々とある。今、豊島郡に属す。その地にて区別できる。
  • 駅家:今の荒井宿はもしかすると古の駅家のあとであろうか。荒藺崎などの地名を考え合わせればそうではないかと思われるが、証拠はないので、強く主張はしない。[3]

和名抄諸国郡郷考 六 武蔵

荏原 えはら 今、江戸麻生青山の辺を言ったという。(中略)小山田与清は次のように言った。江戸という名の由来は、荏処の略語であって、よい荏の生える地だからである。もとは荏原の郡に属していたのであろう。国郡の境は時代によって変わるので、後に豊島郡に行ったのであろう。荏原というのも、荏の生え並んでいる様子をいったことばである。安芸国高田郡麻原郷があるのも思い合わせるべきである。県居翁(※賀茂真淵)が江の門をかたどったものだと言われたのは作り事であって、このあたりに江の門と言うような地形は昔もなかったし、今もない。それなのに、古学に心を寄せる人たちは大江の御門とさえ言っているようなのは、根本を正すことのない誤った考えだ。

(以下抄録)

  • 蒲田:今考えるに新宿(※蒲田新宿)北に蒲田村というところがある。『四神地名録』大森村の南に蒲田村というのがある。古名であるというが由緒はない。
  • 田本
  • 満田:『四神地名録』古川村医王山世尊院安養寺[4]は国中古川の薬師として繁盛の仏相が伝えられている。和銅三年開山行基菩薩建立という。『風土記』荏原郡満田郷満田寺に清宗法師薬師像を安置したとあるのはこの寺の事であろうか。今、満田と称するところはない。この寺の薬師仏は昔から名のある如来なので、清宗法師の安置した薬師だろう。風土記に、満田郷から梅を貢ぐと記されている。今も古川村に梅の木は多い。以上から考えれば、上世の満田の郷であろう。
  • 荏原
  • 覚志:『房総志料』今、糀屋村がある。ここであろうか。
  • 御田:『房総志料』今、芝の辺りを言った。
  • 木田:『房総志料』今、上北沢村・下北沢村が目黒の北西一里ばかりにあるのがこれである。
  • 桜田:『房総志料』今、豊島郡に属している。寛永年間江戸図に桜田村あり。[5]

日本地理志料 巻十六 武蔵 荏原郡

荏原郡 武蔵国の幡羅郡および備中・伊予に荏原郷があり、相模に荏草郷があり、豊後に荏隈郷がある。(以下、抄録)

  • 蒲田:筑後・肥前にも蒲田郷があり、名義は駿河の蒲原郷のところで証した。
  • 田本:名義としては袂(たもと)であろうか。倭訓栞に「袂ノ浦」が相州にあり、江の島腰越浜の地形が袂に似ていることからこの名があるという。東京湾もまた袖ケ浦と称する。古語の袖と袂はたがいに通じる。これが田本ノ浦の意味であろうか。
  • 満田:河内の茨田郡はマムタと読む。同語であろうか。[6]……残編『風土記』に満田寺は荏原郡満田郷にあり、清宗法師が薬師仏を安置した、と。『四神地名録』古川の安養寺、医王山と号す、世に古川の薬師堂と称す。和銅年間に行基の開いた所であると相伝える。『風土記』にいう満田寺がこれである。地図から考えると、古川・三塚・原・安方・今泉・矢口の諸邑にわたり、六郷領に属す。……
  • 荏原:荏原の郡家がここにあり、それにちなんだ地名であろう。残編『風土記』に荏原神社、荏原川を載せる。松平定常いわく、目黒川は品川にいたって海に入る。土人は荏原川と称する。南品川に稲荷の祠あり、天武六年にこれを祀った。いわゆる荏原神社がこれである。……『新編風土記』では荏原は未詳である。今のどこに当たるかを考えてみると、地図では、中延・小山・戸越・桐ヶ谷・南品川・碑文谷・石川・池上・雪が谷の諸邑にわたり、千束郷と称し、馬込領に属するのがこの領域であろう。……
  • 覚志:兵部省式によれば、信濃国に覚志駅があり、摂津の覚美郷をカカミと読んでいる。美濃の各務郡もカカミと読む。これらは転音である。山岡浚明いわく、覚志はいまは廃れているが、今の麹谷村(※糀谷=こうじや)がこれであろうか。松平定常いわく、橘樹郡綱島村に加加志の地があり、どこかはわかっていない。『撮壌集』酒類部によれば、麹は加賀志(カガシ)と読む。『和名抄』で語義を引くと、麹は朽である。これを鬱させて腐敗させるものである。和名は加无太知(カムタチ)であり、培養して起こすという意味であろう。今は訛って加宇治(カウジ)という。……また『伝灯録』では、案山子を加賀志(カガシ)と読む。すなわち鹿(カ)を逃しめるということであろう。古事記にいわゆる山田之曾富騰(※やまだのそほど、山の田の中で濡れそぼつ者)すなわち久延毘古(クエビコ)神がこれである。地名の意味については今はよくわからないが、地図から考えれば、麹谷(糀谷)・羽田・萩中・下袋・雑色・八幡塚・高畑の諸邑であり、六郷領に属するのがこの領域であろう。
  • 御田:高山寺本によれば、御田は王田である。上古、国ごとに田部を置き、王田を耕作させた。伊賀・身の・因幡・安芸に三田郷があり、みなその由来である。長禄年間の江戸図に三田村、銀三田村(しろがねみたむら)がある。……今、三田町、三田村があり、上高輪・下高輪・北品川・大崎・高輪台・今黒・白金・白金台・永峯・谷山・小山の諸邑があり、麻布領・品川領に属する。これがその領域である。
  • 木田:伊予に喜多郡がある。この郷は郡の北にあり、木田は北の意味であろう。『新編風土記』木田は存在しないが、今、上北沢・下北沢の二村はその遺名であろうか。地図から考えると、赤堤・代田・若林・馬引沢・奥沢・太子堂・三宿・池尻・上中下目黒の諸邑、菅刈荘と称し、世田ヶ谷領に属す。また、上中下渋谷村が麻布領に属している。これがその領域であろう。……[7]
  • 桜田:桜は木の名前であって、河内の桜井郷の項で意味を考えた。終わりに作楽郷がある。……『新編風土記』今の江戸城に桜田門あり、城南に桜田本郷町がある。芝、麻布、麹町、四谷、赤坂、青山、飯倉、原宿、今井、隠田、千駄ヶ谷の諸邑は今は豊島郡に属しているが、この領域であろう。
  • 大井(駅家):大井とは原本にはない。兵部省式により補う。[8]

地名の割当

 『和名類聚抄(和名抄)』によると、荏原郡内には 蒲田・田本・満田・荏原・覚志(かがし)・御田・木田・桜田・駅家の9郷が記されているが、そのうち「御田郷」は、現在の港区「三田」から目黒区「三田」にかけての一帯の区域で、「桜田郷」は、現在の港区北部から千代田区にかけての区域であろうと推定されている。
 また「覚志郷」は、世田谷区内の旧馬引沢(現在では、上馬・下馬・三軒茶屋・野沢・駒沢2丁目・同1丁目東北3分の2・同3丁目東半部・池尻1丁目・太子堂1丁目南半部)から、古い北沢(現在では、上北沢・桜上水・赤堤・松原・羽根木・代田・大原・下北沢・代沢・梅丘1丁目・豪徳寺1丁目北半部)にかけての一帯の区域であろうと推定されている。 — 世田谷区教育委員会『世田谷の地名』第1章第2節 荏原郡・多磨郡(昭和五十九年3月10日)

この世田谷区教育委員会の見解はいくつかのウェブサイト上でも引き継がれているが、覚志郷が下北沢地域を含む世田谷区東北部に当たると推定されている出典は不明である。

一方で、上記各文献にて覚志郷は糀谷付近であるとの推測がなされており、こちらの方が合理的であろう。京急空港線糀谷駅を中心とした地域が覚志郷と思われる。また、諸資料では木田郷が上北沢・下北沢付近か、との推測も示されている。当サイトでは、下北沢地域を含むエリアは古代の武蔵国荏原郡木田郷であると考える。

注記

  1. 以下の史料で現代語訳した部分はすべて木田沢ダイタによる。
  2. 大橋方長(八右衛門)『武蔵演路』、序文は安永九年(1780年)
  3. 昌平坂学問所地理局『新編武蔵風土記稿』(1810~1830年)
  4. 大田区西六郷 古川薬師安養寺。ただし、現在地は移転したものとある。
  5. 富永春部 纂述『和名抄諸国郡郷考』近藤活版所、明治二十年(1887)
  6. 大阪市鶴見区「区名・地名の由来」では、以下のように記されている。
    茨田大宮(まったおおみや)
     字宮の前に鎮座した産土社の大神社の社名に由来する。大神社は大正3年8月11日に大字浜字赤曾根の古宮神社に合祀されたが、昭和12年に旧地に還坐し、俗に大宮神社として町域の人達に親しまれていることによる。
    「茨田」の地名について
    『日本書紀』を出典とする古い地名として当地付近が該当することに由来する。
    古来の茨田(万牟多)湿地や仁徳天皇の代に構築されたとする茨田堤にちなむ。
    ◎仁徳天皇11年「北の河のこみを防かむとして茨田堤を築く」(日本書紀)
    ◎仁徳天皇条「秦人を役ちて茨田堤及び茨田屯倉を作り」(古事記)
    ◎河内国皇別「茨田宿禰多朝臣同祖彦八井耳命之後也。男野現宿禰仁徳天皇御代造茨田堤」(新撰姓氏録)などの記録が残されている。
  7. この項の全文は「木田郷」を参照のこと。
  8. 村岡檪斎 (良弼)『日本地理志料』(東陽堂、明治三十五年~三十六年)

歴史的行政区画(世田谷地域も含む)