「木田郷」の版間の差分
(同じ利用者による、間の3版が非表示) | |||
1行目: | 1行目: | ||
− | [[木田郷]]は[[武蔵国]][[荏原郡]]に八つあった郷の一つである。当サイトでは、[[下北沢]]・上北沢の名称の由来はこの木田郷にあると考える。 | + | [[木田郷]]は[[武蔵国]][[荏原郡]]に八つあった郷の一つである。当サイトでは、[[下北沢]]・上北沢の名称の由来はこの木田郷にあると考える。<ref>以下の文献の現代語訳は木田沢ダイタによる。なお、他の郷などについては[[荏原郡]]参照。</ref> |
− | == | + | ==[[新編武蔵風土記稿]] 三十九 荏原郡 総説== |
(抜粋)考えるに、この郡はむかし田が多いところだっただろう。和名抄に載っている郷名の多くに田がついている。蒲田、田本、満田、御田、[[木田]]、桜田である。今は田地が少ない郡であるが、桑田の変は後の世からはわからないことである。 | (抜粋)考えるに、この郡はむかし田が多いところだっただろう。和名抄に載っている郷名の多くに田がついている。蒲田、田本、満田、御田、[[木田]]、桜田である。今は田地が少ない郡であるが、桑田の変は後の世からはわからないことである。 | ||
===和名抄に載っている八郷と駅家=== | ===和名抄に載っている八郷と駅家=== | ||
− | * [[木田郷|木田]]:木多(きた)と註す。今、上北沢・[[下北沢]]の両村があるのがこれだという説もある。この説は北ということから起こったものとも思われるが確証はない。<ref> | + | * [[木田郷|木田]]:木多(きた)と註す。今、上北沢・[[下北沢]]の両村があるのがこれだという説もある。この説は北ということから起こったものとも思われるが確証はない。<ref>昌平坂学問所地理局『新編武蔵風土記稿』(1810~1830年)</ref> |
+ | |||
+ | ==日本地理志料 巻十六 武蔵 荏原郡== | ||
+ | * [[木田郷|木田]]:〔支多〕支は岐(キ)の省略であろう。伊予に喜多郡がある。この郷は郡の北にあり、木田は北の意味であろう。『新編風土記』木田は存在しないが、今、上北沢・[[下北沢村|下北沢]]の二村はその遺名であろうか。 | ||
+ | |||
+ | 地図から考えると、赤堤・[[代田村|代田]]・若林・馬引沢・奥沢・太子堂・三宿・池尻・上中下目黒の諸邑、[[菅刈荘]]と称し、[[世田ヶ谷領]]に属す。また、上中下渋谷村が麻布領に属している。これがその領域であろう。 | ||
+ | |||
+ | 北沢に[[森巌寺]]がある。慶長年間(1596年~1615年)に[[結城秀康]]によって建てられ、森巌はその法名である。古い駅鈴を一口所蔵している。はじめ下総の関真間村 源心寺にあり、寺僧某が移住して当地へ来てからここにあるという。 | ||
+ | |||
+ | 渋谷に金王八幡祠がある。渋谷金王丸が祀られているという。『東鑑』から考えれば治承年間(1177年~1181年)渋谷重国は相模の渋谷荘(※高座渋谷)に居たが、養和年間(1181年~1182年)にその子高重が功により武蔵国渋谷下郷の貢税を免じられている。この別邑であろう。上渋谷・下渋谷は、長禄江戸図、『小田原分限帳』に見える。 | ||
+ | |||
+ | 奥沢に九品寺がある。吉良氏累世の館跡である。 | ||
+ | |||
+ | 小田原分限帳、江戸目黒本村、大田源七郎知行。天正三年の文書に菅刈荘免畔と書いているものがある。不動堂あり。(以下略)<ref>村岡檪斎 (良弼)『日本地理志料』(東陽堂、明治三十五年~三十六年)</ref> | ||
+ | |||
+ | ==『地名の語源』より== | ||
+ | *'''キタ''' (1)*キダ。〔木田・北・北方〕 (2)北(方角)。〔北・北方・喜多・木田・北山〕 | ||
+ | *'''キダ''' (1)自然堤防の地。 (2)「北」に当て字をしたもの。〔喜多・木田・吉多・岐刀(キダ)・気多・城田・黄田〕<ref>鏡味完二・鏡味明克『地名の語源』角川小事典13(角川書店)昭和五十二年十月三十日</ref> | ||
==当サイトでの考察== | ==当サイトでの考察== | ||
− | 木田郷の地名の由来は「北」ではないと考える。なぜなら、[[荏原郡]] | + | 木田郷の地名の由来は「北」ではないと考える。なぜなら、[[荏原郡]]の他の郷名に「東」「南」「西」「中」等を示すものがない一方、「田」を含む郷名が蒲田・田本・満田・御田・木田・桜田の六つあることは新編武蔵風土記稿でも指摘されているとおりである。したがって、木田郷は方角に由来すると考える前に、荏原郡の「○+田」郷名の一つと考える必要があるだろう。また、これらの郷名は御田・田本を除いて植物由来と考えられる(蒲=カマ、満=茨=マム(いばら)、桜=サクラ)上、「荏原」も「荏」である。 |
− | + | ただし、「田」は水田のみならず沼地や低湿地なども含む一方、「処(ド)」の転として「~の場所」という解釈も成り立つ。木が多い水田地というよりは、「木の多い場所」の方が当てはまりそうだ。 | |
− | + | ===大分~キダ=段=== | |
+ | 大分(おおいた、古名は「おほきた」)の地名由来について以下のような記載がある。 | ||
+ | {{quotation|半田康夫氏は、『大分県の風土と沿革』で、「分」は「段」と共に「キダ」と訓まれていたとしています。渡辺澄夫氏も『大分市史』昭和30年刊で、「キダ」は「段」で、きれめ・きざみ・だんの意、「分」はわかち・わかれの意で、分離の意味において両者はあい通ずる故、「オオキダ」は大きく(大いに)きざみ分けられた所と解される、と述べています。地形が錯綜している事から起こったのではないかというのです。「大分」の字義解釈が諸説ある中で、この説が現在比較的有力です。|[https://www.oita-library.jp/?page_id=452 大分県立図書館 レファレンス情報 「大分県」の県名の由来を知りたい。]}} | ||
+ | ほかに『地名の語源』では上記のとおり「キダ」地名の語源の一つとして「自然堤防の地」と記されている。[[下北沢地域]]を含む一帯が木田郷であったとすれば、沢を丘が挟んでいる地形であり、「段」もしくは「きざみ分けられた所」としてキダ郷と呼ばれた可能性も捨てるわけにはいかない。 | ||
+ | |||
+ | したがって、木田郷の由来としては、1)木の多い場所 2)きざみ分けられた場所 の二説を提唱しておきたい。 | ||
+ | |||
+ | ===北沢の由来=== | ||
+ | 北沢という地名については、「北の沢」ではなく「木田の沢」すなわち木田郷の沢という意味ではないか。「北にある沢」という名称であれば何の北なのかがわからない上、他に「東沢」「南沢」「西沢」という地名が近隣に存在していない<ref>[[東北沢駅]]は、下北沢駅の東という意味であって、「東北の沢」ではない。</ref>。「[[世田谷七沢]]」でも方角による指定は他にない。とすれば、旧来の木田郷にある沢地付近と考えるのが妥当ではなかろうか。これは、瀬田の谷だから世田ヶ谷というのと同型の地名であると考える。なお、漢字表記は時代によって変わるが音は比較的変わりにくいため、木田沢が北沢という表記になることは珍しくないと思われる。このように考えれば、「[[喜多見]]」も木田郷と関連する地名の可能性が出てくる<ref>嘉元二年(1304年)の史料に「木田見」表記があるという。</ref>。 | ||
+ | |||
+ | ただし、かつて一つの「北沢村」が存在し、それが上北沢・下北沢に分かれたとは考えない。この説では、その二つが離れており、間に別の地名が挟まっていることがネックとなっている。もちろん、上と下の中間が別地名になることはよくあることではある(越の国が越前・越中・越後に加えて加賀・能登に分かれた例もある)。しかし、これも単に「木田郷エリアの沢地の水源あたり」を上北沢、「木田郷エリアの沢地の下流域」を下北沢と呼んだのだと考えれば、上北沢と下北沢が離れていても特段問題ない。 | ||
==注釈== | ==注釈== | ||
<references /> | <references /> | ||
− | + | {{歴史的行政区画}} | |
{{デフォルトソート:きたこう}} | {{デフォルトソート:きたこう}} | ||
[[category:歴史的行政区画]] | [[category:歴史的行政区画]] |
2019年9月22日 (日) 15:47時点における最新版
木田郷は武蔵国荏原郡に八つあった郷の一つである。当サイトでは、下北沢・上北沢の名称の由来はこの木田郷にあると考える。[1]
目次
新編武蔵風土記稿 三十九 荏原郡 総説
(抜粋)考えるに、この郡はむかし田が多いところだっただろう。和名抄に載っている郷名の多くに田がついている。蒲田、田本、満田、御田、木田、桜田である。今は田地が少ない郡であるが、桑田の変は後の世からはわからないことである。
和名抄に載っている八郷と駅家
日本地理志料 巻十六 武蔵 荏原郡
地図から考えると、赤堤・代田・若林・馬引沢・奥沢・太子堂・三宿・池尻・上中下目黒の諸邑、菅刈荘と称し、世田ヶ谷領に属す。また、上中下渋谷村が麻布領に属している。これがその領域であろう。
北沢に森巌寺がある。慶長年間(1596年~1615年)に結城秀康によって建てられ、森巌はその法名である。古い駅鈴を一口所蔵している。はじめ下総の関真間村 源心寺にあり、寺僧某が移住して当地へ来てからここにあるという。
渋谷に金王八幡祠がある。渋谷金王丸が祀られているという。『東鑑』から考えれば治承年間(1177年~1181年)渋谷重国は相模の渋谷荘(※高座渋谷)に居たが、養和年間(1181年~1182年)にその子高重が功により武蔵国渋谷下郷の貢税を免じられている。この別邑であろう。上渋谷・下渋谷は、長禄江戸図、『小田原分限帳』に見える。
奥沢に九品寺がある。吉良氏累世の館跡である。
小田原分限帳、江戸目黒本村、大田源七郎知行。天正三年の文書に菅刈荘免畔と書いているものがある。不動堂あり。(以下略)[3]
『地名の語源』より
- キタ (1)*キダ。〔木田・北・北方〕 (2)北(方角)。〔北・北方・喜多・木田・北山〕
- キダ (1)自然堤防の地。 (2)「北」に当て字をしたもの。〔喜多・木田・吉多・岐刀(キダ)・気多・城田・黄田〕[4]
当サイトでの考察
木田郷の地名の由来は「北」ではないと考える。なぜなら、荏原郡の他の郷名に「東」「南」「西」「中」等を示すものがない一方、「田」を含む郷名が蒲田・田本・満田・御田・木田・桜田の六つあることは新編武蔵風土記稿でも指摘されているとおりである。したがって、木田郷は方角に由来すると考える前に、荏原郡の「○+田」郷名の一つと考える必要があるだろう。また、これらの郷名は御田・田本を除いて植物由来と考えられる(蒲=カマ、満=茨=マム(いばら)、桜=サクラ)上、「荏原」も「荏」である。
ただし、「田」は水田のみならず沼地や低湿地なども含む一方、「処(ド)」の転として「~の場所」という解釈も成り立つ。木が多い水田地というよりは、「木の多い場所」の方が当てはまりそうだ。
大分~キダ=段
大分(おおいた、古名は「おほきた」)の地名由来について以下のような記載がある。
半田康夫氏は、『大分県の風土と沿革』で、「分」は「段」と共に「キダ」と訓まれていたとしています。渡辺澄夫氏も『大分市史』昭和30年刊で、「キダ」は「段」で、きれめ・きざみ・だんの意、「分」はわかち・わかれの意で、分離の意味において両者はあい通ずる故、「オオキダ」は大きく(大いに)きざみ分けられた所と解される、と述べています。地形が錯綜している事から起こったのではないかというのです。「大分」の字義解釈が諸説ある中で、この説が現在比較的有力です。
ほかに『地名の語源』では上記のとおり「キダ」地名の語源の一つとして「自然堤防の地」と記されている。下北沢地域を含む一帯が木田郷であったとすれば、沢を丘が挟んでいる地形であり、「段」もしくは「きざみ分けられた所」としてキダ郷と呼ばれた可能性も捨てるわけにはいかない。
したがって、木田郷の由来としては、1)木の多い場所 2)きざみ分けられた場所 の二説を提唱しておきたい。
北沢の由来
北沢という地名については、「北の沢」ではなく「木田の沢」すなわち木田郷の沢という意味ではないか。「北にある沢」という名称であれば何の北なのかがわからない上、他に「東沢」「南沢」「西沢」という地名が近隣に存在していない[5]。「世田谷七沢」でも方角による指定は他にない。とすれば、旧来の木田郷にある沢地付近と考えるのが妥当ではなかろうか。これは、瀬田の谷だから世田ヶ谷というのと同型の地名であると考える。なお、漢字表記は時代によって変わるが音は比較的変わりにくいため、木田沢が北沢という表記になることは珍しくないと思われる。このように考えれば、「喜多見」も木田郷と関連する地名の可能性が出てくる[6]。
ただし、かつて一つの「北沢村」が存在し、それが上北沢・下北沢に分かれたとは考えない。この説では、その二つが離れており、間に別の地名が挟まっていることがネックとなっている。もちろん、上と下の中間が別地名になることはよくあることではある(越の国が越前・越中・越後に加えて加賀・能登に分かれた例もある)。しかし、これも単に「木田郷エリアの沢地の水源あたり」を上北沢、「木田郷エリアの沢地の下流域」を下北沢と呼んだのだと考えれば、上北沢と下北沢が離れていても特段問題ない。