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『世田谷区の地名』<ref>三田義春編著・森安彦監修・東京都世田谷区教育委員会編『世田谷の地名 : 区域の沿革・地誌・地名の起源』上(昭和五十九年3月10日)</ref>では、新編武蔵風土記稿の上記の記述を紹介した後、以下のように記している。
 
『世田谷区の地名』<ref>三田義春編著・森安彦監修・東京都世田谷区教育委員会編『世田谷の地名 : 区域の沿革・地誌・地名の起源』上(昭和五十九年3月10日)</ref>では、新編武蔵風土記稿の上記の記述を紹介した後、以下のように記している。
 
{{quotation|また石井至穀<ref>石井至穀 菅刈学舎・玉川文庫の創設者・石井兼重の末。安永七年(1778)大蔵村に生まれる。安政六年(1859)没。</ref>著述の「世田谷徴古録」には次の如き絵がある。
 
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[[ファイル:石井至穀菅刈図.png|サムネイル|『世田谷の地名』より]]
 
 更に、元禄3年(1690)大蔵村殿山の石井兼重の開いた家塾を「菅刈学舎」と称し<ref>菅刈学舎・玉川文庫は大蔵の永安寺の前に建てられたという。菅刈橋・菅刈谷戸と伝えられる場所からは少々距離がある。</ref>、文化14年(1817)大庭(場)弥十郎景運(彦根藩世田ヶ谷領代官)が発起人と成って建立した世田谷八幡神社境内にある神徳碑の本文冒頭に「武蔵の国荏原の郡、菅刈の荘、世田谷の郷」とあり、目黒区大橋の氷川神社の石段下に、□坂再建供養塔という碑があって「武劦<ref>実際の石碑を見る限り、「刕」の字に近く見えるが、目黒区では「州」としている。</ref>荏原郡古菅刈庄目黒郷」と刻まれているほか、近くに「目黒区立菅刈小学校」がある。これらの史料は、いずれも近世以降のもので、菅刈庄が存在したことを確認するものとしては力が弱い上に、中世以前の文献には菅刈庄なる庄名は見当らないので、学問的にその存在を証明し得ない。しかしながら、前掲諸資料のもととなった庄名が、近世以降の「作りごと」であったとは考えられないので、以下状況的にみて存在した可能性について探ってみることにする(後略)}}
 
 更に、元禄3年(1690)大蔵村殿山の石井兼重の開いた家塾を「菅刈学舎」と称し<ref>菅刈学舎・玉川文庫は大蔵の永安寺の前に建てられたという。菅刈橋・菅刈谷戸と伝えられる場所からは少々距離がある。</ref>、文化14年(1817)大庭(場)弥十郎景運(彦根藩世田ヶ谷領代官)が発起人と成って建立した世田谷八幡神社境内にある神徳碑の本文冒頭に「武蔵の国荏原の郡、菅刈の荘、世田谷の郷」とあり、目黒区大橋の氷川神社の石段下に、□坂再建供養塔という碑があって「武劦<ref>実際の石碑を見る限り、「刕」の字に近く見えるが、目黒区では「州」としている。</ref>荏原郡古菅刈庄目黒郷」と刻まれているほか、近くに「目黒区立菅刈小学校」がある。これらの史料は、いずれも近世以降のもので、菅刈庄が存在したことを確認するものとしては力が弱い上に、中世以前の文献には菅刈庄なる庄名は見当らないので、学問的にその存在を証明し得ない。しかしながら、前掲諸資料のもととなった庄名が、近世以降の「作りごと」であったとは考えられないので、以下状況的にみて存在した可能性について探ってみることにする(後略)}}
 
この後の論考として、菅刈谷戸に近い満中在家という字名が「多田満仲の所領であった」という土地の古老の話を採用し、満中在家は多田満仲または源氏系の者の荘園で、それが菅刈荘であったのではないかとの推測を展開する。さらに「世田谷七沢八八幡」という言葉から、菅刈荘とされる一帯に八幡神社が多く、「菅刈庄は源氏系の荘官が管理した荘園で、満仲の若しくは満仲の名を称する荘園であったとみておかしくはないと思うのである」と結論づけている。
 
この後の論考として、菅刈谷戸に近い満中在家という字名が「多田満仲の所領であった」という土地の古老の話を採用し、満中在家は多田満仲または源氏系の者の荘園で、それが菅刈荘であったのではないかとの推測を展開する。さらに「世田谷七沢八八幡」という言葉から、菅刈荘とされる一帯に八幡神社が多く、「菅刈庄は源氏系の荘官が管理した荘園で、満仲の若しくは満仲の名を称する荘園であったとみておかしくはないと思うのである」と結論づけている。

2018年9月9日 (日) 21:42時点における最新版

菅刈荘(菅刈庄、すげかりしょう)は、武蔵国荏原郡の西半分を占めていたとされる荘の名である。ただし、この荘名が記載されているものは江戸時代以降に限られるため、荘園が本当に存在していたかどうかについては疑問も提示されている。

新編武蔵風土記稿[1]

巻之三十九 荏原郡之一 総説

今、庄と呼ぶところ

  • 菅刈:この荘名に含まれる村々は今27村ある。これを図によって考えると、荏原郡の西の方の半ばはこの荘名を唱える村々であるため、その左右の村は今は伝えないとしてもおおよそこの荘の内と思われる。ただし、東の方の諸村は庄名を帯びたところが一村もないため、ここにも古くは庄名があったものの今はその名を失ったと思われる。後世、領の名をもっぱら使うようになり、郷・庄の名はあまり使わなくなったため、呼び名も忘れられたものと思われる。また、武蔵風土記に荏原郡赤坂庄があるが、今はその場所を伝えない。豊島郡に赤坂の地があるので、そのあたりを言ったのかもしれない。なお、その地に記した領の名も東鑑(吾妻鏡)に出て、近い頃に定められたものと思われるが、鎌倉のころは庄の名が盛んに行われていたので、領はあまり聞かれない。後の世に領の名に改め、正されて、今に至っては領と呼ぶようになったものであろう。しかし、その正されたものも天正十八年御討ち入り(※1590年徳川家康の江戸城入り)のころにはいまだ確定していなかったようである。

巻之四十八 荏原郡之十

世田ヶ谷領

……土人の伝える所だが、いにしえはこの辺をすべて菅刈庄世田ヶ谷郷と称していたという。とすれば、領名(世田ヶ谷領)となったのは御入国以後のことということになる。

世田ヶ谷村

世田ヶ谷村は菅刈庄である。……

○菅刈橋 字横根より北の方にあり。悪水溝にかかる橋で、わずかに石梁2枚を渡している。この辺、かつて古くは菅刈の庄と称したのは最初にも書いたとおりである。その名が今に残っているのは、この橋と下の神社だけである。古い称名であることがわかるので、特に取り上げた。[2]

○菅刈社 字横根というところにある。小さな祠である。この菅刈というのはこの郡の庄名なのでこれを唱えているのは古い社なのであろう。しかし、勧請年月・祭神などはわからないという。

経堂在家村

小名 菅刈谷戸 本村の坤(※南西)にある。この辺、菅の類が繁茂していたので名とした。この庄名の起こりもこの地名によると土人が言っている。

『世田谷区の地名』での考察

『世田谷区の地名』[3]では、新編武蔵風土記稿の上記の記述を紹介した後、以下のように記している。

また石井至穀[4]著述の「世田谷徴古録」には次の如き絵がある。
『世田谷の地名』より

 更に、元禄3年(1690)大蔵村殿山の石井兼重の開いた家塾を「菅刈学舎」と称し[5]、文化14年(1817)大庭(場)弥十郎景運(彦根藩世田ヶ谷領代官)が発起人と成って建立した世田谷八幡神社境内にある神徳碑の本文冒頭に「武蔵の国荏原の郡、菅刈の荘、世田谷の郷」とあり、目黒区大橋の氷川神社の石段下に、□坂再建供養塔という碑があって「武劦[6]荏原郡古菅刈庄目黒郷」と刻まれているほか、近くに「目黒区立菅刈小学校」がある。これらの史料は、いずれも近世以降のもので、菅刈庄が存在したことを確認するものとしては力が弱い上に、中世以前の文献には菅刈庄なる庄名は見当らないので、学問的にその存在を証明し得ない。しかしながら、前掲諸資料のもととなった庄名が、近世以降の「作りごと」であったとは考えられないので、以下状況的にみて存在した可能性について探ってみることにする(後略)

この後の論考として、菅刈谷戸に近い満中在家という字名が「多田満仲の所領であった」という土地の古老の話を採用し、満中在家は多田満仲または源氏系の者の荘園で、それが菅刈荘であったのではないかとの推測を展開する。さらに「世田谷七沢八八幡」という言葉から、菅刈荘とされる一帯に八幡神社が多く、「菅刈庄は源氏系の荘官が管理した荘園で、満仲の若しくは満仲の名を称する荘園であったとみておかしくはないと思うのである」と結論づけている。

ただし、実際には世田谷の八幡神社の創建自体が多田満仲(912~997)の時代からかなり下るものが多いことなど、論拠としては薄弱なものが多く、この推論については妥当性が見いだせない。

目黒区:目黒の地名 菅刈

十世紀の初めごろに作られた「倭名抄」によると、大化の改新以降の菅刈の地域は東海道武蔵国荏原郡覚々志かがし郷に属していたと考えられる[7]。また、江戸初期の「新編武蔵風土記稿」によると、現在の目黒区の西半分と世田谷区の東半分にかけての地域を「菅苅荘」「菅苅庄」と呼んだとある。

事実を示せば、世田谷区の九品仏浄真寺境内の鐘銘に「荏原郡菅苅荘」の名が刻まれており[8]、また、天正年間に書かれた旧上目黒村の「加藤家家譜」には「荏原菅苅庄免畔地めぐろのち」とある。現に、玉川通りに面した大橋氷川神社石段下には「武州荏原郡古菅苅荘目黒郷、文化十三年九月」と刻まれた石橋があり、当時の上目黒一帯が菅苅庄に属していたことは明らかである。

ところで、この菅苅庄だが、鎌倉時代には荘園に当たる地域を「庄」と呼んだといわれることから、菅苅庄もやはり、なにがしかの荘園に由来するものと思われ、故に、それが地名になったのではなかろうか。菅刈といえば、今日の菅刈小学校辺りを想像しがちであるが、実は前述のとおり世田谷の一部と旧上目黒一帯の総称なのである。

このことは菅刈小学校の沿革をみれば明らかになる。同校は旧目黒村初の公立小学校として、明治8年5月15日、上目黒字宿山の烏森稲荷神社の近くで創立し、明治31年寿福寺のそばに移転した。青葉台三丁目(旧上目黒八丁目)の現在地に移転したのは、さらに十年後の明治41年のことである。学校名はその昔、菅苅庄に属していたことから創立時にその名を付けたといわれる。今日、菅刈の名は目黒、世田谷両区の中で、この菅刈小学校と、菅刈住区の二つに見られるだけになった。

祖先が歩み続けた郷土の歴史的な意味とあすへの大いなる発展を秘めた菅刈の名は、この目黒の地に末長く残ることであろう。

— 目黒の地名 菅刈(すげかり)- 目黒区[9]

菅刈荘は存在したのか

「世田谷城跡保存会」による平成27年度第1回歴史講座(「世田谷とは何か」第4回目)「菅刈荘はあったのか?」では、菅刈荘の実在性についての疑義が示された。

①目黒区に伝わる「菅刈荘」
  • 目黒区では新編武蔵風土記稿などの記述を根拠に「菅刈荘」があったとしているが、いずれも江戸時代のものであり、平安時代の史料はなにもなく伝承を文字にしたにすぎない。
  • 伝承地の周辺に平安時代の遺跡、遺物が発見されておらず、荘園を裏付ける史料や痕跡がまったく発見できない。
  • このようなことから、目黒区における菅刈荘(または菅刈庄)の存在は、根本史料がないうえに構築されたものでありまったく肯定できない。あったとする証拠、また論拠が示されていないわけだからむしろなかったといわざるを得ない。

②経堂付近に伝わる菅刈荘

世田谷区では新編武蔵風土記稿も根拠としているが、江戸時代の人で世田谷大蔵の出身石井至穀(江戸幕府において書物奉行)が著述した「世田谷徴古録」(江戸時代後期)に負う所が大である。至穀は根拠を示しておらず、また世田谷区は記述を検証しないままに鵜呑みにしている。

  • 菅刈社と菅刈橋

現在の稲荷森稲荷神社が荘園とゆかりのある菅刈社とされる。菅刈橋は経堂寄りの小川に架かっていた橋とされているが、いずれも至穀の著書や風土記を根拠としており、根本史料を明示していない。

  • 菅刈庚申塔

経堂福昌寺にある。江戸時代のものである。経堂の付近には平安時代の遺跡は今日まで知られていない。

③まとめ

菅刈荘については、平安時代の史料、遺跡や遺物といった歴史的な根拠がなんらないものであり、むしろ創作かと疑うべきシロモノである。しかしこのことをきちんと裏付けもとらず、なおかつ検証もせずに、例えば「世田谷の地名」(森安彦監修三田義春編集・世田谷区教育委員会発行)などではまことしやかに編述されて広く区民に流布してしまっているのはきわめて遺憾であるといわざるを得ない。史料がなく不明なことが多い平安時代については一つのロマン的なお話ではあるが、教育委員会が発行した同書は世田谷や目黒の歴史研究にとっては大きな汚点であり後世に大きな障害をもたらす。その影響は計り知れないから今すぐ改めるべきだ。

— 世田谷城跡保存会 2015年07月28日 世田谷とは何か4 菅刈荘はあったのか?

平安時代以降に菅刈荘という名の荘園が存在した可能性は低い。一方で、江戸時代以降に「菅刈荘○○郷」という表記が存在していることについては一定の遺物が存在している。したがって、菅刈荘という地名の発祥・経緯について改めて調査する必要があると思われる。再度年表で整理すると、以下のとおりである。

  • 1573~1593(天正年間)上目黒村「加藤家家譜」に「荏原菅苅庄免畔地」の記載。
  • 1690 石井兼重「菅刈学舎」を開く。
  • 1709 九品仏浄真寺境内の鐘銘
  • 1804~1829『新編武蔵風土記稿』菅刈庄・菅刈橋・菅刈社・菅刈谷戸の記載。
  • 1816 大橋氷川神社石段下の碑
  • 1817 代官大庭(場)弥十郎景運(彦根藩世田ヶ谷領代官)による世田谷八幡神社境内神徳碑

加藤家家譜の実際の記述は未確認だが、これのみが江戸時代に入る直前の資料となる(実際の執筆年についての検証が必要かと思われる)。17世紀末の菅刈学舎以降、特に19世紀に入ってから「荏原郡菅刈庄」という記載が増える意味について、今後の検証が必要であると思われる。

注釈

  1. この項の現代語訳は木田沢ダイタによる。
  2. まいばすけっと経堂4丁目店の建物の南東角、暗渠の路地入口に世田谷区教育委員会の説明板が建っている。
    菅刈橋跡
    江戸幕府編纂の『新編武蔵風土記稿』には、今の世田谷区・目黒区・大田区にまたがる旧三十九カ村の区域と、飛地として品川区・三鷹市の旧各一村が、古代末期の「菅刈庄(すげかりのしょう)」に属していたと記されている。
    同書はさらに、現在このあたりが、庄名発祥の地で、菅刈谷の地名と、菅刈社・菅刈橋があった。菅刈橋について「字横根ヨリ北ノ方ニアリ、悪水溝ニカカル橋ニシテ、漸ク石梁二枚ヲ渡セリ。」と述べている。
    区内旧大蔵村の出身で、江戸幕府の書物奉行の石井至穀著述『世田谷徴古録』の中にある菅刈谷・菅刈社・菅刈橋などの挿絵図と、国土地理院の発行の明治・大正時代の地形図とを対照すると、風土記稿に言う菅刈橋は、この位置にあったと推定される。
    よってこの標示をして、往時をしのぶよすがとする。
    昭和60年3月
    世田谷区教育委員会
  3. 三田義春編著・森安彦監修・東京都世田谷区教育委員会編『世田谷の地名 : 区域の沿革・地誌・地名の起源』上(昭和五十九年3月10日)
  4. 石井至穀 菅刈学舎・玉川文庫の創設者・石井兼重の末。安永七年(1778)大蔵村に生まれる。安政六年(1859)没。
  5. 菅刈学舎・玉川文庫は大蔵の永安寺の前に建てられたという。菅刈橋・菅刈谷戸と伝えられる場所からは少々距離がある。
  6. 実際の石碑を見る限り、「刕」の字に近く見えるが、目黒区では「州」としている。
  7. 「和名抄」に菅刈という地名が書かれているわけではなく、荏原郡の郷名が列挙されているだけである。文意としては、「菅刈の地域は、和名抄に載っている大化の改新以降の地名としては荏原郡覚志郷の付近であると推測したい」ということであろう。しかし、この文を読むと、和名抄にこのような記載があると勘違いしてしまうため、適切ではないと考えられる。ちなみに、覚志郷については世田谷・目黒近辺ではなく、現在の大田区糀谷を中心とした地域であるという推測が妥当と思われる。詳しくは荏原郡の項を参照。
  8. この鐘が寄進されたのは1709年のことであり、やはり江戸時代である。
  9. 「目黒の地名」は、「月刊めぐろ」(昭和55年8月号から昭和58年4月号)の掲載記事を再構成し編集したもの。

歴史的行政区画(世田谷地域も含む)