木田郷

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2018年9月15日 (土) 07:25時点における木田沢ダイタ (トーク | 投稿記録)による版

木田郷武蔵国荏原郡に八つあった郷の一つである。当サイトでは、下北沢・上北沢の名称の由来はこの木田郷にあると考える。[1]

新編武蔵風土記稿 三十九 荏原郡 総説

(抜粋)考えるに、この郡はむかし田が多いところだっただろう。和名抄に載っている郷名の多くに田がついている。蒲田、田本、満田、御田、木田、桜田である。今は田地が少ない郡であるが、桑田の変は後の世からはわからないことである。

和名抄に載っている八郷と駅家

  • 木田:木多(きた)と註す。今、上北沢・下北沢の両村があるのがこれだという説もある。この説は北ということから起こったものとも思われるが確証はない。[2]

日本地理志料 巻十六 武蔵 荏原郡

  • 木田:〔支多〕支は岐(キ)の省略であろう。伊予に喜多郡がある。この郷は郡の北にあり、木田は北の意味であろう。『新編風土記』木田は存在しないが、今、上北沢・下北沢の二村はその遺名であろうか。

地図から考えると、赤堤・代田・若林・馬引沢・奥沢・太子堂・三宿・池尻・上中下目黒の諸邑、菅刈荘と称し、世田ヶ谷領に属す。また、上中下渋谷村が麻布領に属している。これがその領域であろう。

北沢に森巌寺がある。慶長年間(1596年~1615年)に結城秀康によって建てられ、森巌はその法名である。古い駅鈴を一口所蔵している。はじめ下総の関真間村 源心寺にあり、寺僧某が移住して当地へ来てからここにあるという。

渋谷に金王八幡祠がある。渋谷金王丸が祀られているという。『東鑑』から考えれば治承年間(1177年~1181年)渋谷重国は相模の渋谷荘(※高座渋谷)に居たが、養和年間(1181年~1182年)にその子高重が功により武蔵国渋谷下郷の貢税を免じられている。この別邑であろう。上渋谷・下渋谷は、長禄江戸図、『小田原分限帳』に見える。

奥沢に九品寺がある。吉良氏累世の館跡である。

小田原分限帳、江戸目黒本村、大田源七郎知行。天正三年の文書に菅刈荘免畔と書いているものがある。不動堂あり。(以下略)[3]

当サイトでの考察

木田郷の地名の由来は「北」ではないと考える。なぜなら、荏原郡の他の郷名に「東」「南」「西」「中」等を示すものがない一方、「田」を含む郷名が蒲田・田本・満田・御田・木田・桜田の六つあることは新編武蔵風土記稿でも指摘されているとおりであり、荏原郡の「○+田」地名の一つと考えるのが適切と思われる。この「田」は水田のみならず沼地や低湿地なども含むため、文字通り木の多い湿地で木田という由来ではないだろうか。他の地名も、御田・田本を除いて植物由来と考えられる(蒲=カマ、満=茨=マム(いばら)、桜=サクラ)上、「荏原」も「荏」である。荏原郡の郷名としては、「木+田」と考える方が自然だろう。

この木田郷の名称から「木田沢」すなわち木田郷の沢地という名称が生まれたのではないか。「北にある沢」という名称であれば何の北なのかがわからない上、他に「東沢」「南沢」「西沢」という地名が近隣に存在していない。「世田谷七沢」でも方角による指定は他にない。とすれば、旧来の木田郷にある沢地付近と考えるのが妥当ではなかろうか。これは、瀬田の谷だから世田ヶ谷というのと同型の地名であると考える。なお、漢字表記は時代によって変わるが音は比較的変わりにくいため、木田沢が北沢になることは珍しくないと思われる。このように考えれば、「喜多見」も木田郷と関係がある隣接地名として理解できる。

ただし、かつての「北沢村」が上北沢・下北沢になったという説には賛同しない。この説では、その二つが離れていることがネックとなっている。もちろん、上と下の中間が別地名になることはよくあることだが(越の国が越前・越中・越後に加えて加賀・能登に分かれた例もある)。しかし、これも「木田郷エリアの沢地の水源あたり」を上北沢、「木田郷エリアの沢地の下流」を下北沢と呼んだのだと考えれば、上北沢と下北沢が離れていても特段問題ない。

注釈

  1. 以下の文献の現代語訳は木田沢ダイタによる。なお、他の郷などについては荏原郡参照。
  2. 昌平坂学問所地理局『新編武蔵風土記稿』(1810~1830年)
  3. 村岡檪斎 (良弼)『日本地理志料』(東陽堂、明治三十五年~三十六年)

歴史的行政区画(世田谷地域も含む)