菅刈庄
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菅刈庄(菅刈荘、すげかりしょう)は、武蔵国荏原郡の西半分を占めていたとされる荘の名である。ただし、この庄名が本当に存在していたかどうかについては疑問も残る。
目黒区:目黒の地名 菅刈
十世紀の初めごろに作られた「倭名抄」によると、大化の改新以降の菅刈の地域は東海道武蔵国荏原郡覚々志 郷に属していたと考えられる。また、江戸初期の「新編武蔵風土記稿」によると、現在の目黒区の西半分と世田谷区の東半分にかけての地域を「菅苅荘」「菅苅庄」と呼んだとある。事実を示せば、世田谷区の九品仏浄真寺境内の鐘銘に「荏原郡菅苅荘」の名が刻まれており、また、天正年間に書かれた旧上目黒村の「加藤家家譜」には「荏原菅苅庄
免畔地 」とある。現に、玉川通りに面した大橋氷川神社石段下には「武州荏原郡古菅苅荘目黒郷、文化十三年九月」と刻まれた石橋があり、当時の上目黒一帯が菅苅庄に属していたことは明らかである。ところで、この菅苅庄だが、鎌倉時代には荘園に当たる地域を「庄」と呼んだといわれることから、菅苅庄もやはり、なにがしかの荘園に由来するものと思われ、故に、それが地名になったのではなかろうか。菅刈といえば、今日の菅刈小学校辺りを想像しがちであるが、実は前述のとおり世田谷の一部と旧上目黒一帯の総称なのである。
このことは菅刈小学校の沿革をみれば明らかになる。同校は旧目黒村初の公立小学校として、明治8年5月15日、上目黒字宿山の烏森稲荷神社の近くで創立し、明治31年寿福寺のそばに移転した。青葉台三丁目(旧上目黒八丁目)の現在地に移転したのは、さらに十年後の明治41年のことである。学校名はその昔、菅苅庄に属していたことから創立時にその名を付けたといわれる。今日、菅刈の名は目黒、世田谷両区の中で、この菅刈小学校と、菅刈住区の二つに見られるだけになった。
祖先が歩み続けた郷土の歴史的な意味とあすへの大いなる発展を秘めた菅刈の名は、この目黒の地に末長く残ることであろう。
— 目黒の地名 菅刈(すげかり)- 目黒区[1]
新編武蔵風土記稿 三十九 荏原郡 総説
今、庄と呼ぶところ
- 菅刈:この荘名に含まれる村々は今27村ある。これを図によって考えると、荏原郡の西の方の半ばはこの荘名を唱える村々であるため、その左右の村は今は伝えないとしてもおおよそこの荘の内と思われる。ただし、東の方の諸村は庄名を帯びたところが一村もないため、ここにも古くは庄名があったものの今はその名を失ったと思われる。後世、領の名をもっぱら使うようになり、郷・庄の名はあまり使わなくなったため、呼び名も忘れられたものと思われる。また、武蔵風土記に荏原郡赤坂庄があるが、今はその場所を伝えない。豊島郡に赤坂の地があるので、そのあたりを言ったのかもしれない。なお、その地に記した領の名も東鑑(吾妻鏡)に出て、近い頃に定められたものと思われるが、鎌倉のころは庄の名が盛んに行われていたので、領はあまり聞かれない。後の世に領の名に改め、正されて、今に至っては領と呼ぶようになったものであろう。しかし、その正されたものも天正十八年御討ち入り(1590年徳川家康の江戸城入り)のころにはいまだ確定していなかったようである。[2]