世田ヶ谷領
世田ヶ谷領(せたがやりょう)は、以下の二通りの用法がある。
- 中世の世田ヶ谷郷に含まれる領域が江戸時代ごろ世田ヶ谷領と呼ばれるようになった。荏原郡内30村+多磨郡29村の合計59村である。井伊家(彦根藩)領と幕府直轄領に分かれる。
- 井伊家世田ヶ谷領二十か村。江戸時代、井伊家(いわゆる彦根藩)の領地のうち、世田谷近辺に飛地として存在していた領地を指す。
新編武蔵風土記稿 四十八 荏原郡之十 世田ヶ谷領[1]
さて、世田ヶ谷という地名はいつごろから起こったかはわからない。吉良家譜によれば、「鎌倉公方足利持氏のとき、吉良治部大輔治家が世田ヶ谷郷を賜ってから子孫世々この地に住んだ。そのため、後々家臣の侍たちは吉良家を称して「世田ヶ谷御所」とも「世田ヶ谷殿」とも呼んだ」とある。そうであれば、応永(1394年~1428年)のころにはすでに「世田ヶ谷」という呼称があったことになる。
しかし、土地の人が伝えるところによれば、昔はこの辺をすべて菅刈荘世田ヶ谷郷と称したという。そうであれば、世田ヶ谷領となったのは(家康公)御入国以後のことということになる。
今、世田ヶ谷領の中で荏原郡内にある場所は、おおよそを測ると東西へ一里半ばかり、南北へは二里余りである。その村の数は30村である。その他の村の過半は西の方、多磨郡にある。その境界は北の方も多磨郡から豊島郡に及んで、領内と接している。その境界の先は2郡とも野方領である。東の方は荏原郡馬込領と接し、巽(南東)方面わずかに15町ほどの間は六郷領と接している。南は橘樹郡の稲毛領に接し、多摩川を境界としている。領内はすべて高い地であり、山林原野が多い。田畝も水田は少なく、陸田(=畑)が多い。御入国の後は年々に新墾した田地も多いので、昔と比べれば田数もはるかに多くはなっているが、海道をへだてた僻地なので、農民等は質朴であり、この地の賑わいは吉良家領地の時代には及ばないであろう。
新編武蔵風土記稿 一百二十六 多磨郡之三十八 世田ヶ谷領
世田ヶ谷領は多磨郡の東にある。この領名は荏原郡にもある。多磨郡内の世田ヶ谷領の四方について、東の方は荏原郡世田ヶ谷領に続き、南は橘樹郡の稲毛領に接し、西は多磨郡の府中領に及び、北は野方領に接している。おおよそ東西3里ばかり、南北一里半余りの地であり、村の数は29村である。
この領名がいつごろ起こったかは定かではないが、吉良家譜によると、「鎌倉公方足利持氏のとき、吉良治部大輔治家が世田ヶ谷郷を賜ってから子孫世々この地に住んだ。そのため、後々家臣の侍たちは吉良家を称して「世田ヶ谷御所」とも「世田ヶ谷殿」とも呼んだ」とある。そうであれば、応永(1394年~1428年)のころにはすでに「世田ヶ谷」という呼称があったことになる。
その他詳細は荏原郡世田ヶ谷領の項にある。
注記
- ↑ 現代語訳はすべて木田沢ダイタによる。