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* 天保年間(1830~1843年):『天保郷帳』高317石余
 
* 天保年間(1830~1843年):『天保郷帳』高317石余
 
* 文久元年(1861年)3月:下北沢組合、豊沢組合(渋谷)・角筈組合(新宿)の3寄場組合村に、大山道の中豊沢村と甲州道中の角筈村に見張番所を設置することを幕府が命じた。これは尊皇攘夷派の不穏な動きに対抗するものである。
 
* 文久元年(1861年)3月:下北沢組合、豊沢組合(渋谷)・角筈組合(新宿)の3寄場組合村に、大山道の中豊沢村と甲州道中の角筈村に見張番所を設置することを幕府が命じた。これは尊皇攘夷派の不穏な動きに対抗するものである。
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* 文久三年(1863)
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** 2月:英艦隊江戸湾示威回遊。近郊百姓江戸の武家・町人の荷物を預かる。非常大御用として下北沢寄場組合村に人馬差出し、手当金差出し命令。
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** 9月:[[御鷹野役所]]を[[兵粮方役所]]と改称。
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** 10月:下北沢村ほか10か村12人の村役人等、兵粮方御預り御下役を仰せつけられる。
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** 11月:下北沢組合14か村が、兵粮方下役12人の支度料、1人につき4両(陣笠・野袴・半纏・裁付など)につき、30%を各村一律、70%を村高割で負担した。
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** 12月:関東取締出役より、非常時につき組合村1村ごとに小前銘竹槍等用意、5人組の内からもおおよそ10人くらいずつ組分かち定置かれる。
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** 12月:江戸出口宿宿番所の取り締まり強化が図られ、公用私用稼業を問わず、出入りには幕府発行の鑑札が必要になった。世田谷の天領12村に下附された鑑札はわずか82枚で、農民は公私の活動に困った。
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* 元治元年(1864年)
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** 7月:青山道渋谷宮益坂に関が設けられ、鑑札のないものは一切通行ができなくなったため、村々が厳重な抗議を申し入れた。その結果、鑑札は各村名主の発行する木札印鑑によることとなり、増札も若干認められた。
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** 月不明:和泉新田焔硝蔵警備人足差出し、下北沢村は昼詰1人、夜詰4人。
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* 慶応二年(1866年)1月:銃隊火人並稽古大隊の備相立る
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* 慶応三年(1867年)
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** 1月:農民御取立相成る。御鳥見役所廃止。
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** 2月:銃隊稽古始め仰せ出される。外国人通行の折、悪口し又瓦礫打ち候こといたすまじきこと。
 
* 幕末:下北沢村 310石5升3合1勺 幕府代官松村忠四郎
 
* 幕末:下北沢村 310石5升3合1勺 幕府代官松村忠四郎
  

2019年9月22日 (日) 10:14時点における版

下北沢村(しもきたざわむら)は、現世田谷区の北東端に存在した村である。現在の地名では北沢代沢に該当する(代田村の飛地である下代田を除く)

略年表

この年表は、世田谷区教育委員会『世田谷の地名』(昭和五十九年)「下北沢略年表」をもとに編集した。

戦国~安土桃山時代

江戸時代

  • 慶長十三年(1608年):浄土宗八幡山浄光院森巌寺創建。清誉存廓孫公和尚により、結城秀康徳川家康の次男)の位牌所として創建された。境内に孫公和尚が祀った淡島明神があり、施灸の寺(淡島の灸)として有名になる。
  • 寛永十一年(1634年):齋藤摂津守三友(右近、御持筒組組頭)、下総国香取郡のうちで采地2000石であったが、武蔵国橘樹郡などで400石が加増される。その中に下北沢村60石が含まれていた。
  • 寛永十二年(1635年):参勤交代制の確立とともに助郷制度創始。下北沢村は高井戸宿の助郷村となったと推定される。
  • 慶安二年~三年(1649~1650年):『武蔵田園簿』によれば、
     下喜田沢村 高70石9斗1升
      内 27石9斗1升 田方 33石2升 畑方
        外米2俵7斗1合(野米相当)
          斉藤摂津守知行
    斉藤摂津守右近三友は、その後二回の加増を受け5000石となる。
  • 承応三年(1654年)6月:玉川上水の羽村~四谷大木戸間の開渠が下北沢村の北部を通って完成した。
  • 万治元年(1658年):上北沢村が住民の飲料水確保を理由に玉川上水からの分水を許可された。→寛文十年
  • 寛文四年(1664年)11月:下北沢村芝地(現北沢5丁目34番の北端)で、玉川上水路に三尺四方の分水用圦樋を設置し、麻布・伊皿子方面への上水を目的とした三田用水を開削。下北沢村では当初、この用水からの分水は不便だったため利用しなかったとされている。
  • 寛文十年(1670年):玉川上水の拡張が行われ、灌漑用にも使用できるようになったため、北沢用水として下流の村々も利用できるようになった。
  • 貞享二年(1685年):齋藤摂津守の孫、齋藤飛騨守三政(宮内)、1000石を加増され、6000石になる。
  • 元禄二年(1689年):齋藤飛騨守三政、故あって逼塞を申しつけられ、翌年赦免される。
  • 元禄年間(1688~1703年):『元禄郷帖』によれば、下北沢村の石高は266石余
  • 宝永六年(1709年)2月:齋藤飛騨守三政、近江国粟田・野洲・蒲生の三郡内に采地が所替えになる。以後、下北沢村は幕末まで幕府直轄領(天領)として、代官の支配を受けることとなった。
  • 享保元年(1716年)9月:寛永年間に設定された品川・沼部・世田谷・中野・戸田・平郷・渕江・八条・葛西の9領にわたる旧鷹場をあらためて御留野として、同地域より4里~5里の範囲を禁猟区とする触が出された。
  • 享保三年(1718年):江戸近郊9領の鷹場を改めて、品川筋・目黒筋・中野筋・戸田筋・岩渕筋・葛西筋の6筋に改編し、その統制が強化された。世田谷地方は目黒筋に編入され、上目黒村の御用屋敷内に設けられた鳥見役所(通称・お鳥見様)の管轄下に属した。
  • 延享二年(1745年)5月:日光門主の下向にあたって、下北沢村は品川宿戸越組の臨時増助郷を命じられた。
  • 宝暦十三年(1763年)
    • 7月:御城御用螻(鷹の生餌)上納通知が池沢村弥惣兵衛(触次名主)から出る。
    • 8月:駒場原草刈御用につき参集有度旨廻状、池沢村弥惣兵衛から出る。
  • 文政年間(1818~1829年):宗門改帳によれば、家数103、人口401
  • 文政九年(1826年):『新編武蔵風土記稿』脱稿。下北沢村 民戸八十軒余との記載あり。
  • 文政十年(1827年):文政取締改革組合村結成。下北沢・池尻・池沢・三宿・太子堂・上馬引沢・下馬引沢・野沢・若林・代田・松原・赤堤・経堂在家の13か村で下北沢組合とし、下北沢村を寄場村とした。
  • 天保年間(1830~1843年):『天保郷帳』高317石余
  • 文久元年(1861年)3月:下北沢組合、豊沢組合(渋谷)・角筈組合(新宿)の3寄場組合村に、大山道の中豊沢村と甲州道中の角筈村に見張番所を設置することを幕府が命じた。これは尊皇攘夷派の不穏な動きに対抗するものである。
  • 文久三年(1863)
    • 2月:英艦隊江戸湾示威回遊。近郊百姓江戸の武家・町人の荷物を預かる。非常大御用として下北沢寄場組合村に人馬差出し、手当金差出し命令。
    • 9月:御鷹野役所兵粮方役所と改称。
    • 10月:下北沢村ほか10か村12人の村役人等、兵粮方御預り御下役を仰せつけられる。
    • 11月:下北沢組合14か村が、兵粮方下役12人の支度料、1人につき4両(陣笠・野袴・半纏・裁付など)につき、30%を各村一律、70%を村高割で負担した。
    • 12月:関東取締出役より、非常時につき組合村1村ごとに小前銘竹槍等用意、5人組の内からもおおよそ10人くらいずつ組分かち定置かれる。
    • 12月:江戸出口宿宿番所の取り締まり強化が図られ、公用私用稼業を問わず、出入りには幕府発行の鑑札が必要になった。世田谷の天領12村に下附された鑑札はわずか82枚で、農民は公私の活動に困った。
  • 元治元年(1864年)
    • 7月:青山道渋谷宮益坂に関が設けられ、鑑札のないものは一切通行ができなくなったため、村々が厳重な抗議を申し入れた。その結果、鑑札は各村名主の発行する木札印鑑によることとなり、増札も若干認められた。
    • 月不明:和泉新田焔硝蔵警備人足差出し、下北沢村は昼詰1人、夜詰4人。
  • 慶応二年(1866年)1月:銃隊火人並稽古大隊の備相立る
  • 慶応三年(1867年)
    • 1月:農民御取立相成る。御鳥見役所廃止。
    • 2月:銃隊稽古始め仰せ出される。外国人通行の折、悪口し又瓦礫打ち候こといたすまじきこと。
  • 幕末:下北沢村 310石5升3合1勺 幕府代官松村忠四郎

明治時代

  • 慶応四年(1868年)
    • 3月:官軍先遣隊が品川宿・内藤新宿に到着。御宿陣人足を差し出すよう命令され、下北沢村は品川宿に16人、内藤新宿に31人の人足を差し出した。また、下馬引沢村に備前藩、三軒茶屋付近に尾州藩の一帯が宿陣し、世田谷15か村・渋谷5か村・上目黒村が人足を差し出した。
    • 5月:新政府により、民政裁判所の管轄となり、武蔵知県事松村長為の支配を受けた。
    • 9月:明治に改元。
  • 明治二年(1869年)
  • 明治六年(1873年)3月:東京府大区小区制実施。第七大区第六小区に属する。
  • 明治七年(1874年):戸数103、男258、女258、計516。荷車1、農車6、馬6、牛6、田8町2反9畝15歩、畑87町8反3歩
  • 明治十一年(1878年)11月:郡制実施。荏原郡に属す。
  • 明治十二年(1879年)6月:下北沢村と代田村が連合し、下北沢村に連合戸長役場が置かれた。
  • 明治十三年(1880年):連合村会開設、議員は両村で16人。
  • 明治二十一年(1888年):戸数99、人口587
  • 明治二十二年(1889年)5月:市制町村制施行。池尻・三宿・太子堂・若林・下北沢・代田・経堂在家・世田ヶ谷の8村が合併して新しい世田ヶ谷村が成立。旧村の区域は大字となった。

関連項目

歴史的行政区画(世田谷地域も含む)