「世田ヶ谷郷」の版間の差分
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2019年9月22日 (日) 17:11時点における最新版
世田ヶ谷郷は近世に唱えられるようになった武蔵国荏原郡内の地域名である。古代においては郷ではなく、室町~江戸初期に世田ヶ谷郷と呼ばれたが、後には世田ヶ谷領と呼ばれるようになった。
新編武蔵風土記稿 三十九 荏原郡 総説[1]
中古に郷と呼ばれるようになったところ
- 千束:池上・奥沢・同新田・道々橋・中延・雪ヶ谷の六か村が中古には千束郷と呼ばれていたと言い伝えられる。日蓮の文書に千束郷池上と記したものがある。また、中延村八幡社別当法連寺蔵の長治二年(1105年)の旧記に千束郷中延村と記されている。今、馬込村の小名に千束村がある。これは当時の名残であって、馬込村も千束郷に属していたのであろう。
- 大井:土岐家譜に載っている貞治五年(1366年)将軍足利義詮の文書に、武蔵国大井郷不入読村云々とある。大井村鹿島社寛正四年(1463年)の鰐口にも大井郷と彫られているので、むかし、大井不入斗村あたりが大井郷と呼ばれていたものであろう。
- 世田ヶ谷:鶴岡八幡社蔵の永和(1375~1379)・正長(1428~1429)の文書に、武蔵国世田ヶ谷郷内弦巻村云々とある。吉良家譜に「治部大輔治家、足利持氏より武蔵国世田ヶ谷郷を賜う」という。世田ヶ谷村勝光院天正十九年(1591年)の御朱印、および同村豪徳寺延宝七年(1679年)の鐘銘にも世田ヶ谷郷とあるので、これは延宝のころまでこの郷名を伝えたと思われる。今、領名として呼ぶ。
- 品川:南品川妙國寺蔵の永享(1429~1441)・明応(1492~1501)・永正(1504~1521)の文書数通に南品川郷と記している。同所海妟寺の宝徳(1449~1452)の文書、大崎村民家所蔵の天正(1573~1593)の文書に品川郷とある。これによれば、南北と分けたり、品川郷とだけ称したこともあると思われる。これも今、領名にある。
このほか、保名(※六郷保)の項目で取り上げた明徳・応永(1390~1428)などの文書に、原郷・大森郷など記されているが、むかしは某の村を某の郷と記したものがよくあるので、これは郷名と呼べるかどうか定かでないものは省略した。また、応永年中、足利満兼の文書に武蔵国鎌田郷と書いて郡名を書いていないものがある。鎌田という地名は荏原郡と多磨郡にあるので、どこを指しているかは不明である。
注釈
- ↑ 現代語訳は木田沢ダイタによる。