「武蔵知県事」の版間の差分
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2018年9月9日 (日) 22:04時点における最新版
武蔵知県事は、慶応四年=明治元年(1868年)の「府藩県三治制」にもとづき、武蔵国の幕府直轄領を管轄するために置かれた地方官である。廃藩置県に際して大宮県・小菅県・品川県に分かれた。
府藩県三治制
慶応四年(1868年)閏4月21日、太政官第331号「政体書」が発布された。この中で定められた地方統治の形が府藩県三治制と呼ばれる。
- 府:城代・京都所司代・奉行の支配地。「知府事」を置く。
- 藩:大名の支配地。大名(諸侯)が引き続き治める。なお、大名の所領を正式に「藩」と呼んだのはここからで、江戸時代には「藩」という言葉は一般的に使われていなかった。
- 県:その他。「知県事」を置く。
明治二年(1869年)6月17日、版籍奉還によって藩は国の行政区画となる。旧藩主は「知藩事」に任命された。
明治四年(1871年)7月14日、廃藩置県によって藩が廃止され、府県制となる。
武蔵知県事
慶応四年5月19日、新政府軍は江戸鎮台府を置き、朱引内の江戸市中を支配していた町奉行所を「市政裁判所」、寺社領を支配していた寺社奉行所を「寺社裁判所」、幕府領を支配していた勘定奉行所を「民政裁判所」に改めた。民政裁判所の下部組織として、旧勘定奉行の代官を武蔵知県事として任命した。武蔵知県事は三名置かれ、それぞれの担当区域が決まっていた。なお、正式に「武蔵県」が置かれたという記録はなく、ただ「武蔵知県事」が任命されたのみである。
支配所 | 年月日 | 初代知藩事 | 交代年月日 | 二代目知藩事 | 廃藩置県後 |
---|---|---|---|---|---|
大竹左馬太郎支配所 ほか114,450石 |
慶応四年6月19日 | 山田(一太夫)政則 (忍藩士) |
明治二年2月8日 | 宮原忠英 (前太政官弁事) |
大宮県→浦和県 |
松村忠四郎支配所、増上寺領 ほか100,000石 |
慶応四年6月20日 | 松村(忠四郎)長為 (旧幕府代官) |
慶応四年8月8日 | 古賀(一平)定雄 (佐賀藩士) |
品川県 |
佐々井半十郎支配所、東叡山領 ほか137,200石 |
慶応四年7月10日 | 桑山(圭助)効 (旧幕府代官) |
明治元年12月23日 | 河瀬秀治 (宮津藩士) |
小菅県 |
- 大竹左馬太郎支配所 - 豊島郡17村、足立郡176村、葛飾郡6村、埼玉郡90村
- 松村忠四郎支配所 - 豊島郡52村、荏原郡72村、足立郡7村、多摩郡83村、久良岐郡11村、橘樹郡78村、都筑郡38村、埼玉郡14村、比企郡14村、高麗郡55村、入間郡67村、大里郡4村、新座郡19村、幡羅郡3村
- 佐々井半十郎支配所 - 豊島郡14村、足立郡114村、葛飾郡202村、埼玉郡38村
代官・松村忠四郎(松村長為)の支配地はそのまま松村が引き継いだものの、間もなく古賀定雄に受け継がれたことになる。この古賀定雄管轄地が品川県となる。
世田谷地方42か村の管轄区分
明治政府最初の地方行政機関の世田谷地方管轄(支配)区分 慶応四年5月~明治二年5月[1]
区分 | 民政裁判所(松村→古賀) | 寺社裁判所 | 彦根藩(代官・大場信愛) |
---|---|---|---|
荏原郡 | 下北沢村・代田村・池尻村・池沢村・三宿村・太子堂村(大半)・若林村・経堂在家村・上馬引沢村・中馬引沢村・下馬引沢村(大半)・野沢村・深沢村・松原村・赤堤村・下野毛村(一部)・等々力村(過半)・奥沢本村・奥沢新田村 | 世田ヶ谷村(一部)・弦巻村(一部)・上北沢村・等々力村(一部) | 太子堂村(大半)・世田ヶ谷村(大半)・弦巻村(大半)・下馬引沢村(一部)・世田谷新町村・上野毛村・下野毛村(大半)・尾山村・用賀村・野良田村・瀬田村 |
多磨郡 | 喜多見村(大半)・大蔵村(一部)・横根村(大半)・烏山村・給田村・粕谷村・廻沢村・船橋村・上祖師ヶ谷村・下祖師ヶ谷村 | 喜多見村(一部) | 宇奈根村・大蔵村(大半)・横根村(一部)・鎌田村・岡本村・八幡山村 |
この時点では、寺社地なのか否かで同じ村でも管轄が違ったということになる。
注記
- ↑ 世田谷区教育委員会『世田谷の地名』昭和五十九年3月10日 32ページより