だいた橋 (紫の一本)

提供: 下北沢百科
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17世紀の江戸地誌・仮名草子である『紫の一本』巻下〈橋は〉「だいた橋」の現代語訳および原文である。

典拠は『戸田茂睡全集[1]』、現代語訳は木田沢ダイタによる。

現代語訳

だいた橋だいたぼっちが掛けた橋と言い伝える[2]。四ッ谷新町の先、笹塚の手前である[3]

肥後国八代領内に百合若ゆりわか塚というものがある[4]。塚の上に大木がある。地元の者が言うには、「百合若は身分の低い者だ。大臣[5]というのは大人(タイジン=大きな人)のことであり、大太ともいう。大きな人で大きな力があり、強弓を引き、礫(つぶて=小石)を打つことができた。今、大太ぼっちというのは百合若のことである。ボッチというのは礫のことである」という。

ある年、台風でその塚の上の大木が倒れ、塚が崩れた中に、石棺があった。中を見ると、普通の人の首を四つ五つ合わせたほどの首があった。不思議だとみているうちに、雪や霜のように消え失せた。これによって、おおきな卒塔婆を立てて、この様子を書き付けて塚の上に立てた。その卒塔婆は今も残っているという。

百合若のことは筑紫人であり、玄海島で鬼を退治したことは、百合若の舞(幸若舞)にみえる。しかし、奥州の島の中に百合若島[6]というのがあって、緑丸という鷹のことまで確かにある島があるという。また、上州妙義山の道にも百合若の足跡・矢の跡というのがある[7]。このほかにも、大太ぼっちの足跡・力業の跡はあちこちにある。

注釈

  1. 国立国会図書館デジタルコレクションを底本とした。
  2. 代田橋玉川上水甲州街道の交わるところに掛けられた橋である。玉川上水の建設は承応二年(1653年)4月着工・11月開通である。本書が書かれた天和三年(1683年)の30年前のことであった。一方、代田という地名自体はそれ以前にさかのぼる。また、ここで代田のダイダラボッチの足跡についての言及はない。
    このことから以下のとおり推測される。
     1)玉川上水が甲州街道と交わる代田村の橋だから「代田橋」と名づけられた。
     2)ダイタという地名からダイダラボッチ伝説と結びつけられた。
     3)近くの沼地がダイダラボッチの足跡とされた。
     4)柳田國男が『ダイダラ坊の足跡』に記載し、代田地名の由来という説が固定化した。
  3. 実際には笹塚の先となる。
  4. 現在、百合若塚がどこにあったのかは確認できない。
  5. 「百合若大臣」という名の巨人伝説が伝えられている。
  6. この島の情報は不詳。
  7. 群馬県・妙義山の星穴岳の伝説。星穴岳には百合若が射抜いた「射抜き穴」と「むすび穴」が開いている。また、百合若が矢を射るために踏ん張った足跡が、下横川の小山沢と、五科の中木にある。

原文

だいた橋、だいたぼっちが掛たる橋のよし云伝ふる、四ッ谷新町の先笹塚の手前なり、肥後国八代領の内に百合若塚と云あり、塚の上に大木あり、所の者云、百合若は賤き者なり、大臣と云は大人なり、大太とも云、大人にて大力ありて強弓を引き、よく礫を打つ、今大太ぼっちと云は百合若の事、ぼっちとは礫の事なりとぞ、一とせ大風にて、右の塚の上の大木たふれて塚崩たる中に、石のからうと有り、内を見るに、常の人の首四つ五つ合せたる程の首有り、不思議を立て見る内に、雪霜のごとく消失せぬ、依之大き成る卒塔婆をたて、右の様子を書付て塚の上に立る、其卒塔婆今にありとぞ、百合若の事筑紫人にて、玄海が島に於て鬼を平ぐる事、百合若の舞に見えたり、然るに奥州の島の内に百合若島と云ありて、みどり丸と云鷹の事まで慥にある島ありとぞ、又上州妙義山の道にも、百合若の足跡矢の跡とてあり、此外にも大太ぼっちが足跡力業の跡、爰かしこにあり、