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世田谷のボロ市は、毎年12月15日・16日、1月15日・16日に、ボロ市通りを中心に開かれる蚤の市である。発祥は天正六年(1578年)の[[北条氏政]]による掟書によるとされている。
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世田谷の'''ボロ市'''は、毎年12月15日・16日、1月15日・16日に、ボロ市通りを中心に開かれる蚤の市である。発祥は天正六年(1578年)の[[北条氏政]]による掟書によるとされている。
  
 
==北条氏政の掟書==
 
==北条氏政の掟書==
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現在もボロ市は毎年四日間開催され、また5年に1回の「代官行列」も実施されている。
 
現在もボロ市は毎年四日間開催され、また5年に1回の「代官行列」も実施されている。
  
==注釈==
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==参考文献・注釈==
 
* 世田谷区立郷土資料館『ボロ市の歴史』(1998年)
 
* 世田谷区立郷土資料館『ボロ市の歴史』(1998年)
 
* 長沢利明「[https://rekihaku.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=1638&item_no=1&page_id=13&block_id=41 世田谷のボロ市の発達史と現況]」『国立歴史民俗博物館研究報告 145』, 373-412, 2008-11(国立歴史民俗博物館)
 
* 長沢利明「[https://rekihaku.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=1638&item_no=1&page_id=13&block_id=41 世田谷のボロ市の発達史と現況]」『国立歴史民俗博物館研究報告 145』, 373-412, 2008-11(国立歴史民俗博物館)
 
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2019年9月23日 (月) 18:16時点における版

世田谷のボロ市は、毎年12月15日・16日、1月15日・16日に、ボロ市通りを中心に開かれる蚤の市である。発祥は天正六年(1578年)の北条氏政による掟書によるとされている。

北条氏政の掟書

 天正六年(1578年)、小田原城主北条氏政が世田谷新宿に宛てて掟書を発した。

  掟
一 市之日一ヶ月
   一日 六日 十一日 十六日 廿一日 廿六日
一 押買狼藉堅令停止事、  一 国質・郷質不可取之事、
一 喧嘩口論令停止事、   一 諸役一切不可有之事、
   已上
右為楽市定置所如件、
 天正六年戊寅(北条氏朱印[1]) 九月廿九日 山角上野介 奉之
    世田谷新宿
  • この市は下一桁が1と6の日(1日・6日・11日・16日・21日・26日)に開かれる六斎市である。
  • 押し売りの反対に、商品を無理に買う「押し買い」を禁止する。
  • 借金がある者について、同国人・同郷人の商品を差し押さえることを禁止する。
  • けんかや口論を禁止する。
  • 市の税金は一切取らない。
  • 以上は、だれでも自由に店を出し、税金も取られない楽市とするために定めておくことである。
  • 山角(やまかく)上野介康定は北条氏政の側近である。評定衆として裁許朱印状に加えた署判数が一番多い。

 当時の世田谷は吉良氏の領地であり、北条氏の傘下に入っていた。小田原と江戸城を結ぶ矢倉沢往還(大山道)は重要な幹線であり、その中間に位置する世田谷は交通の要衝として重要であった。吉良氏の城下町である元宿(現・世田谷区役所付近)に対し、道筋に当たる新宿を設置し、市を開くことにしたことがわかる。

江戸時代、歳の市化

江戸時代に入ると、商人は江戸市中に集まるようになり、世田谷新宿の六斎市は次第に衰え、年に一回の歳の市になった。

世田ヶ谷の地は、吉良氏のときは城下の市中であり、荏原郡・多磨郡の中で第一の交易所であり、商人も数多くいて繁盛したところであったが、吉良家が没落し、さらに江戸の地が将軍の御在城となったため、自然と衰え、商人たちは江戸へ移ったゆえに、今のような辺鄙な僻地となったのだという。 — 『四神地名録』寛政六年(1794年)(現代語訳木田沢ダイタ)
……古は毎月一・六の日に市があったという。荏原郡多磨郡の中で第一の交易所であったので商人も多く集まって特に賑わっていた。北条氏から下された市の免状というものが今も井伊家の家人が伝えている。その証文は以下のとおり。(※上記掟書略)それも御入国の後は次第に衰えて、いつの頃からか年に一度ずつ市を立てている。この日は商売様々商物(商品)を持ち出して、近郷の人が集って賑わっている。 — 『新編武蔵風土記稿』文政十三年(1830年)(現代語訳木田沢ダイタ)

年に一回にはなったものの、開催時には非常に賑わっていた。歳の市ではあるが、正月用品だけでなく、日用品・農具・食品など多様な品物が売り買いされていた。地元ではこれを「市町(いちまち)」と呼び習わしていた。

市について御領分内だけに限ることはなく、だいたい最寄り14里~20里くらい遠方からも各地の産物を持ち寄って売買する者があり、4~5日前から荷物を持ってやってくる。当日になれば江戸表または向こうのあたりからやってくる。遊山・見物・鳴り物のようなものはこれまで一切なく、売買のみである。 — 世田ヶ谷領代官大場弥十郎『世田谷勤事録』巻一(享和元年(1801年))(現代語訳木田沢ダイタ)

市町は世田ヶ谷村の上町(上宿)と下町(下宿)で毎年場所を変えて催された。運営には当番の宿の役人・名主が当たり、代官が井伊家に届け出ることで開催が認められていた。市町は代官屋敷と密接な関係を持って運営されていたのである。

現地での市町の責任者となる大場代官家は、開催中に一度、火の元警備と監督のために見回りを行っていた。これは寛政七年(1795年)以前から実施されていた。上町開催の年は「下町境横宿へ入口辺」(円光院前の角)から「馬喰宿横丁入口地蔵前又は仙蔵院先角(現桜小学校)」まで、下町開催の年は代官屋敷から「若林村百姓家前辺」(世田谷通り松陰神社入り口辺り)までであった。

明治時代、年二回二日ずつの開催

明治二年(1869年)には、上町・下町で同時に市が立った。これ以降、おそらく両町で店が出ていたと推測される。ただし、明治後期には上町の方に出店が多くなった。

明治四年(1871年)、廃藩置県による彦根藩消滅にともなって大場家も代官職を解かれることとなった。

明治六年(1873年)、新暦が導入されることとなり、12月が2日だけとなった。そのため、この年は市町を繰り上げて11月15日に開催されている。しかし、農村では旧暦または月遅れで正月を祝う風習が残されていた。少なくとも明治七年(1874年)からは、新暦12月15日に加えて翌1月15日にも市町が開催されることとなった。これ以降、年に二度の市が立つようになる。

都近い此の辺の村では、陽暦陰暦を折衷して一月遅れで年中行事をやる。陽暦正月は村役場の正月、小学校の正月である。(中略)二月は村の正月だ。松立てぬ家はあるとも、着物更えて長閑に遊はぬ人は無い — 徳冨蘆花『みみずのたはごと』

慶応元年(1865)には、12月15日が雨で人出が少なく、商品が売れ残ったため、翌日にそれを内々で販売した。これが「残り市」と呼ばれる。残り市の開催は明治期に増えていったが、明治二十四年(1891年)1月の市からは毎年のように1月・12月とも15日・16日の両日に市が立つようになった。明治三十年代にはすでに定着し、年4日開催が定例となっていた。

江戸時代から明治前期までは、正月用品・日用品に加えて農具の販売の比重が大きかった。しかし、明治二十年代には、商品の中に占める古着・ボロの割合が大きくなった。これは東京市民の使い古しを市中の古着屋・屑屋が集めたものである。農家は古着を着、ボロを再利用していた。明治三十六年(1903年)12月、幸徳秋水が『平民主義』に「世田ヶ谷の襤褸市」という文章を寄稿している。ここでは、屑屋金太郎に聞き取った当時のボロ市の実情が数字とともに記録されている(→全文は「世田ヶ谷の襤褸市」を参照のこと)。この頃には通称「ボロ市」の名称で呼ばれるようになっていた。ただし、繊維工業の発達や地下足袋の発明にともない、ボロの需要は減少した。

明治中期以降は莚(むしろ)屋の出品が増えた。練馬や世田ヶ谷では大根をそのまま出荷するのではなく、大根漬け(たくあん漬け)として加工して販売するようになったが、その製造時の敷物として用いられていたのが莚である。莚の生産地は神奈川県の荏田・長津田・綱島あたりであった。特に荏田産の莚が「荏田莚」として著名であった。莚の最盛期は明治二十二~二十三年ごろから明治三十五~三十六年ごろまで(1889~1903年ごろ)続き、大きな売上を見せたが、大正に入ると衰退していった。

明治四十年(1907年)には玉川電鉄道玄坂~三軒茶屋間が開通し、商人たちの日帰りが可能になった。それに伴い、宿泊の実入りが減るという影響があった。

十五日が世田ヶ谷のボロ市。世田ヶ谷のボロ市は見ものである。松陰神社の入口から世田ヶ谷の上宿下宿を打通して、約一里の間は、両側にずらり並んで、農家日用の新しい品々は素より、東京中の煤掃の塵箱を此処へ打ち明けた様なあらゆる襤褸やガラクタをずらりと並べて、売る者も売る、買う者も買う、と唯驚かるゝばかりである。見世物が出る。手軽な飲食店が出る。咽を稗が通る様に、店の間を押し合いへし合いしてぞろ/\人間が通る。近郷近在の爺さん婆さん若い者女子供が、股引草鞋で大風呂敷を持ったり、荷車を挽いたり、目籠を背負ったりして、早い者は夜半から出かける。新しい莚、筍掘器、天秤棒を買って帰る者、草履の材料やつぎ切れにする襤褸を買う者、古靴を値切る者、古帽子、古洋燈、講談物の古本を冷かす者、稲荷鮨を頬張る者、玉乗の見世物の前にぽかんと立つ者、人さま/″\物さま/″\の限を尽す。世田ヶ谷のボロ市を観て悟らねばならぬ、世に無用のものは無い、而して悲観は単に高慢であることを。 — 徳冨蘆花『みみずのたはごと』大正二年(1913年)

大正時代

明治末からの交通機関の発達および東京市中の人口増加により、近郊の人口増加が進んだ。特に大正十二年(1923年)の関東大震災以降、宅地を郊外に求める傾向が進み、世田谷周辺の町村でもサラリーマンが多く住むようになった。震災と同じ大正十二年には下町の大山街道に定期バスが通るようになり、大正十四年(1925年)には玉川電気鉄道高井戸線が開業している。

市町においても、郊外に住むようになった新しい住民を大正として庭木用・生け垣用の植木を扱う店が増え、植木市の要素も加わった。植木は埼玉県の安行を中心とした植木産地から生け垣用低木類、果樹類、庭木類が持ち込まれている。

昭和(戦前)

昭和七年(1932)には世田ヶ谷町東京市に編入され、世田谷区となるが、このころ、下町の道路が拡張され、交通量も増えた。そのため、市町でも下町に店を出すことが難しくなった。一方、上町は裏通りのようになり、市を開くのによい場所となった。

昭和に入ってからの市町は、カーバイドの灯をともした夜店が並ぶ様子が名物であったとされる。かつては日没とともに終わっていたが、午後10時~11時頃まで営業を続ける店もあった。このころの市での売り物は、年末の餅つき道具、正月用品・神棚類、農機具類、刃物類、金物・瀬戸物、古着、骨董品、食品、菓子、植木類である。また、サーカス、見世物、大道芸、ガマの油売りなどもいた。飲食店は、地元商店による臨時営業である居店(いみせ)が多かった。

昭和(戦後)ボロ市の中止・再開

終戦直後に再開された市町は、12月15~16日、1月15~16日の四日開催が固定化されており、俗に「四日の市」と称していた。出店数は最盛期の半分ほどにあたる約1000店ほどで、農機具商、際物商(神棚など)、植木商、用品・雑貨商の四分野が中心となっていた。これは農民市、歳の市、植木市、雑貨市という、それまでの歴史的な性質をすべて備えていたといえる。

しかし、昭和三十年代には地元テキ屋一家が勢力を拡大し、風紀が乱れていった。それまで出店料は市の臨時事務所が徴収していたが、戦後は警察が道路使用料を徴収することになって臨時事務所が廃止され、代わりにテキ屋が出店の場所割りを仕切るようになった。出店からは「掃除代」と称する上納金を徴収し、従わない者には暴力的制裁が加えられた。出店露天商にも暴力団系テキ屋が多く入り込んでケンカ・恫喝が絶えず、刃傷沙汰まで起きていた。

姿消す世田谷の〝ボロ市”――目立つテキヤ進出、地元が自粛の廃止――

ボロ市の立つのは毎年十二月と一月の十五、 十六日。同区世田谷一丁目の通称ボロ市通り約一キロの道の両側に古着屋、古金物屋、植木屋など約八百店以上が並び、一日三十万人の人出でにぎわってきた。(中略)ところが昨年、世田谷署が行なったアンケートによると同町の千三百世帯のうち約千世帯が「廃止してほしい」という意見。批判の第一は、戦後、地元のテキヤがボロ市を仕切りはじめたこと。かれらは掃除代と称して約三十人の〝若い衆”が日に何度も地元商店に金をせびりに来る。数年前にはこの掃除代をめぐってテキヤ同士の殺傷ざたまで起り、付近の人たちをふるえ上がらせた。そのうえ、世田谷署の調べによると、地割りを担当している地元の島崎一家二代目高橋分家では、八百余の露店から二千円から五千円の〝掃除代”を取上げて不当な利益を上げていたという。批判の第二は交通マヒ。人出のピークには約五万人の客がつめかけ、事故や火災が起ってもどうすることもできない状態。衛生の面でも、便所の設備がないため、道端のドブやへいが使用され、いやなにおいが半月も残る。このため、付近の商店はもちろん、一般の人たちから「衛生上も悪いし、子どもたちのためにも好ましくない」と、手きびしい非難の声があがるようになった。そこで、世田谷署、地元町会、保健所、露天商などが数回会合を重ねた結果「長い伝統があるものだが、やむを得ない」と廃止に踏み切った。

〔二木世田谷署次長の話〕地元の人たちのやめてほしいという意向と、警視庁の方針が一致したわけで、警察が押付けたわけではない。当日は廃止を知らない露天商も来て、いくらか混乱するかもしれないが責任をもって整理します。

〔二代目高橋分家の岡庭八郎さんの話〕テキヤと暴力団とはなんの関係もない別のものだ。露店商の生活のためにもなんとか続けさせてほしい。これから都議や区長に話し、なんとか存続にもってゆきたい。

〔地元の商店主の話〕ボロ市が終ると残るのはゴミの山と小便のにおいだけです。子どもの時から親しんだボロ市がなくなるのはさみしいが一部の利益にしかならないようなものなら、なくなっても仕方がないと思います。

— 『朝日新聞』昭和三十九年(1964年)12月7日

こうして昭和三十九年(1964年)12月15日・16日のボロ市は地元の反対によって中止となったが、今度は世田谷区・世田谷区長(佐野保房氏)などが中心となって再開を求めた。

ボロ市を続けたい――世田谷区長が呼びかけ、地元もほぼ了承――

テキヤの進出、交通マヒ、防火、衛生上の心配からさる七日、地元が廃止に踏切った東京・世田谷の〝ボロ市”を来年の一月十五日から復活させようという動きが佐野保房世田谷区長を中心に起っている。規模の縮小―廃止―復活とめまぐるしい変りようだが、地元では「廃止になるというので喜んでいたのに―復活するなら、清潔で、近代的な〝ボロ市”にしてもらいたい」という声が強い。地元の世田谷一丁目町会(大場信邦会長)がボロ市の廃止をきめたのはさる七日。八日には昨年の出店届けをたよりに七百三十店の露天商に廃止の通知を発送した。これに対し、東京街商組合は同区当局や世田谷署に「続けてほしい」という申入れをくり返していたが、十三日、区長から地元に「伝統ある区の名物を消したくない。区としても簡易便所を設置して衛生上の不満を解決する。再開しては―」という呼びかけがあった。区長の要請で地元が開いた会合でのことだが、この席上、鈴木光昭世田谷署長も「取締りを強化するから、商店会が主催してやってみたらどうか」と勧めたという。このため、地元の商店会は①露店の地割を警察でやり、テキヤに主導権を渡さない②地元商店から優先的に出店させる③警察はパトロールを強化して事故防止に努める④区役所が便所を設置する、などの条件で〝ボロ市”の主催をほぼ了承した。 〝ボロ市”近代化の具体的な方法は十八日の開かれる地元四商店会の話合いで決定される。

〔佐野区長の話〕時代感覚に合う形で区民にうるおいを与えることが必要だ。このため、区役所も助力したい。再出発だから名前も〝何でも市”というように変えたらどうか。

〔鈴木世田谷署長の話〕先日の廃止の決定以来テキヤにも反省の色がみえるし、由緒あるものなので、再出発するなら協力したい。地割りは警察が指導する。

— 『朝日新聞』昭和三十九年(1964年)12月15日

年内に区の肝いりで市の運営団体として「世田谷ボロ市推進委員会」が結成され、代表には旧代官家・大場家第15代当主の大場信邦氏が就任した。暴力団系のテキヤを出店させない代わりに地元商店会などに参加出店を呼びかけた。テキヤ側はボロ市再開時の出店者に圧力をかけたが、推進委員会による地元と警察の連携によりテキヤの完全追放が達成された。この方法は「ボロ市方式」と呼ばれ、祭り・縁日の模範的存在となった。

昭和五十年(1975年)、地元商店街・桜栄会の会長 河原春男氏が代官餅を考案した。その場で蒸して撞き、温かくボリュームのある餅は、ボロ市を代表する名物として親しまれている。あんこ、きなこ、からみの3種類がある。

昭和五十九年(1984年)、せたがや百景の第23番として「ボロ市と代官屋敷」が選定された。「ボロ市通りには毎年12月と1月の中旬にボロ市が立つ。北条氏の楽市を起源に持つこのボロ市は、四百年の伝統を持ち、今も賑わいを見せている。」と説明されている。

平成:無形民俗文化財

平成六年(1994年)9月29日、世田谷区文化財保護審議委員会が、世田谷のボロ市を区の無形民俗文化財に指定した。これに伴い、「世田谷ボロ市推進委員会」は「せたがやボロ市保存会」と名称変更された。

平成十九年度(2007年度)の第2回選定・世田谷区地域風景資産では、Ⅱ-18「せたがやボロ市が開催される大山道」が選ばれている。

現在もボロ市は毎年四日間開催され、また5年に1回の「代官行列」も実施されている。

参考文献・注釈

  • 世田谷区立郷土資料館『ボロ市の歴史』(1998年)
  • 長沢利明「世田谷のボロ市の発達史と現況」『国立歴史民俗博物館研究報告 145』, 373-412, 2008-11(国立歴史民俗博物館)
  1. 朱印の印文には「禄寿応穏」と書かれている