「瀬田谷領三軒茶屋の都会」の版間の差分

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(ページの作成:「19世紀の江戸近郊紀行文である『'''十方庵遊歴雑記'''』二編 巻之中 第壹「'''瀬田谷領三軒茶屋の都会'''」の現代語訳…」)
 
 
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一、武州瀬田ヶ谷領三軒茶屋といふは、渋谷道源坂町より西の方貳拾余町にありて、相模の国大山石尊へ通行する街道の四辻なれば、{{ルビ|能|ヨキ}}{{ルビ|立塲|タテバ}}にして目だつ酒店茶店など両側に家居し、{{ルビ|棟員|ムネカズ}}わずか七八軒に過ずといへども、処々より人の落合都会の土地なるゆへに{{ルビ|最|イト}}賑かなり。されば爰を三軒茶屋と地名によぶ事は、往来の旅客極て此辻に{{ルビ|憩|イコ}}ひこヽろごヽろに、三方四方へわかれ行の{{ルビ|陌|チマタ}}なれば、斯くはいひ初しにや、則ち西の方は貳拾余町にして、瀬田がやの宿よりなを、西の方は糸を引たるがごとく大道直く、甲府街道府中の駅へ四里半ありとかや、又此処より右の小路を入れば北沢村より代々木等へ罷り、又南の大道はあつぎ、二子の渉し、栗原等へ通行大山街道なれば、常は往来少しといへども、富士まふでの頃は旅客引もちぎらず、此路すじ更に俗地にして打晴たる眺望はなけれど、田に{{ルビ|圃|ハタケ}}に野に平山にどころどころ風景の転ずるも面白く、予がこヽろざす遊歴の所詮、花によくもみぢによし、江戸より三里半もあらんか、
 
一、武州瀬田ヶ谷領三軒茶屋といふは、渋谷道源坂町より西の方貳拾余町にありて、相模の国大山石尊へ通行する街道の四辻なれば、{{ルビ|能|ヨキ}}{{ルビ|立塲|タテバ}}にして目だつ酒店茶店など両側に家居し、{{ルビ|棟員|ムネカズ}}わずか七八軒に過ずといへども、処々より人の落合都会の土地なるゆへに{{ルビ|最|イト}}賑かなり。されば爰を三軒茶屋と地名によぶ事は、往来の旅客極て此辻に{{ルビ|憩|イコ}}ひこヽろごヽろに、三方四方へわかれ行の{{ルビ|陌|チマタ}}なれば、斯くはいひ初しにや、則ち西の方は貳拾余町にして、瀬田がやの宿よりなを、西の方は糸を引たるがごとく大道直く、甲府街道府中の駅へ四里半ありとかや、又此処より右の小路を入れば北沢村より代々木等へ罷り、又南の大道はあつぎ、二子の渉し、栗原等へ通行大山街道なれば、常は往来少しといへども、富士まふでの頃は旅客引もちぎらず、此路すじ更に俗地にして打晴たる眺望はなけれど、田に{{ルビ|圃|ハタケ}}に野に平山にどころどころ風景の転ずるも面白く、予がこヽろざす遊歴の所詮、花によくもみぢによし、江戸より三里半もあらんか、
  
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{{十方庵遊歴雑記}}
'''[[十方庵遊歴雑記]]'''
 
 
 
* 初編 巻之上 弐拾七 [[北沢村淡島の灸点]]([[森巌寺]])
 
* 初編 巻之中 四拾貳 [[瀬田がや村豪徳寺]]([[豪徳寺]])
 
* 二編 巻之中 第壹 [[瀬田谷領三軒茶屋の都会]]([[三軒茶屋]])
 
* 三編 巻之上 拾四 [[豊島村大道法師の塚]](北区豊島の[[ダイダラボッチ]]の塚)
 
 
 
底本は江戸叢書刊行会『江戸叢書』所収のもの(国会図書館デジタルライブラリーにて公開)。
 
 
 
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[[category:三軒茶屋]]

2019年8月25日 (日) 10:48時点における最新版

19世紀の江戸近郊紀行文である『十方庵遊歴雑記』二編 巻之中 第壹「瀬田谷領三軒茶屋の都会」の現代語訳および原文である。

現代語訳

[1]武蔵国荏原郡瀬田ヶ谷領三軒茶屋というのは、渋谷道玄坂町から西の方20余町にあって、相模国大山石尊[2]へ通行する街道[3]の四つ辻なので、いい立地で目立つ酒店・茶店などが両側に並んでいる。棟の数はわずか七、八軒でしかないものの、あちこちから人が落ち合う都会の土地であるため、大変賑やかである。

それゆえ、ここを三軒茶屋という地名で呼ぶのは、往来の旅客が来てこの辻で休み、思い思いに三方四方へ分かれていく交差点なのでそのように言い始めたのであろう[4]

つまり、西の方は20余町で瀬田がやの宿、そこからさらに西の方は糸を引いたように大道がまっすぐ伸びて、甲府街道・府中駅へ四里半あるという[5]。また、ここから右の小路を入れば北沢村から代々木などへ行ける[6]。また、南の大道は厚木、二子の渡し、栗原等へ通い行く大山街道[7]なので、普段は往来が少ないものの、富士詣でのころは旅客が絶えることがない。

この道筋は俗地であって素晴らしい眺望はないが、田に畑に野に平山に、と所々風景が転ずるのも面白い。私が志す遊歴のつまるところ、花によく紅葉によいところである。江戸から三里半ほどであろうか。

注釈

  1. 現代語訳はすべて木田沢ダイタによる。
  2. 大山阿夫利神社のこと。「おおやま せきそん」と読む。
  3. すなわち大山道
  4. ここに信楽(石橋楼)、角屋田中屋という茶屋が三軒あったからという話はまったく出てこない。すべて著者の臆測でしかない。
  5. 実はこちらの方が途中まで大山道の旧道にあたる「上町・慈眼寺線」。下記の「南へ行く」方の新道(新町・行善寺線)は文化文政期に作られたとされているが、この記載からすれば文化十一年以前には新道ができていたということになる。
  6. ただし、この時代にはまだ茶沢通りは存在していない。
  7. 大山道もいろいろあるが、ここでは青山通り大山道、別名矢倉沢往還を指す。宿場は、三軒茶屋二子溝口、荏田、長津田、下鶴間、国分、厚木、伊勢原、曽屋、千村、松田惣領、関本、矢倉沢、竹ノ下。地名の順序も前後している。「栗原」は不詳だが、現・座間市の栗原が近いかもしれない。

原文

一、武州瀬田ヶ谷領三軒茶屋といふは、渋谷道源坂町より西の方貳拾余町にありて、相模の国大山石尊へ通行する街道の四辻なれば、ヨキ立塲タテバにして目だつ酒店茶店など両側に家居し、棟員ムネカズわずか七八軒に過ずといへども、処々より人の落合都会の土地なるゆへにイト賑かなり。されば爰を三軒茶屋と地名によぶ事は、往来の旅客極て此辻にイコひこヽろごヽろに、三方四方へわかれ行のチマタなれば、斯くはいひ初しにや、則ち西の方は貳拾余町にして、瀬田がやの宿よりなを、西の方は糸を引たるがごとく大道直く、甲府街道府中の駅へ四里半ありとかや、又此処より右の小路を入れば北沢村より代々木等へ罷り、又南の大道はあつぎ、二子の渉し、栗原等へ通行大山街道なれば、常は往来少しといへども、富士まふでの頃は旅客引もちぎらず、此路すじ更に俗地にして打晴たる眺望はなけれど、田にハタケに野に平山にどころどころ風景の転ずるも面白く、予がこヽろざす遊歴の所詮、花によくもみぢによし、江戸より三里半もあらんか、

十方庵遊歴雑記

底本は江戸叢書刊行会『江戸叢書』所収のもの(国会図書館デジタルライブラリーにて公開)。