瀬田がや村豪徳寺

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19世紀の江戸近郊紀行文である『十方庵遊歴雑記』初編 巻之中 四拾貳「瀬田がや村豪徳寺」の現代語訳および原文である。

現代語訳

[1]武蔵国荏原郡瀬田が谷村豪徳寺(曹洞)は、北沢村淡島から西南の方およそ13~14町(約1.5km)にある。また、中渋谷道玄坂からは、西の方40余町あるという。

これは井伊掃部頭家の菩提所である。裏門は北沢村からの通りにあって、松・杉の並木が左右に繁茂しており、一町ほどで裏門に至る、また、表門は南の方、瀬田ヶ谷の宿の北裏手にある。

境内はつま先上がりに自然に高くなり、広大で静かである。リス、サル、鳥の声だけが聞こえ、清閑の伽藍といえる。

山内のモミの木で太いものが数本。注文の左右はとりわけ太く、いずれも三抱え~四抱えある。

また、本堂の前には桜の大樹があり、枝が四方へ広がって八~九間、その形は横になった龍が寝ているのに似ている。私が遊歴したのは五月の初めなので、花の盛りを見ることはなく、残りだけであった。

さてまた中門から南の惣門の間の左右は崖であって、ツツジが一面に生い茂っていた。花のころはどれほど壮観だろうか。だが、片田舎なので知っている人はいない。

そして、鐘楼の銘は延宝三年(1675年)とあるので、文化十一年(1814年)で140年になるので、井伊家が近江彦根の居城に定めた後の建立ということになり、それほど古い寺院ではないと思われる。

この鐘楼堂の造りは軒が低く、鐘は地面より上わずか三~四尺離れただけのはなはだ低く釣り上げてある。そのため、ツキ座の前に床几(腰掛け)に似た四角の台を置き、ここに四方の蒲団を敷いて道心と思われる禅門一人が腰掛けている。山内の番人がその横に座っていて、法要のたびに鐘をつくようである。いろいろ変わった鐘楼だ。

さて、本堂は南に向いていて広さ10間あまり、坐禅堂は本堂から折り曲がって東に向いている。また、本堂の軒下に三字の額がかかっている。中門・表門とともに、額はそれぞれ月舟[2]の筆である。

表門から瀬田ヶ谷の駅へ南の方へ5町もあるだろうか。この地は空山寂漠として信仰心が生ずるというのは、このような静かな場所にあるからだろう。繁華街の俗事を離れているため、波打つ意識を静めて心の月を見るには一番いい土地ではないか。左は家、酒屋は三里、豆腐屋へ二里あるため、すべてのことはさぞ不便であろう。しかし、「不聞悪声 不見悪人」[3]の金言が思い出され、感覚すべておだやかに、いつも花鳥に慰められ、湖・月・林・風すべて清い。隠者の住まいはこういう僻地がいいのだろう。

江戸からおよそ三里半。題字の筆法は次の通りである。古城のあと[4]は寺の東の山である。叢林には登ることができない。

瀬田がや村豪徳寺.png

注釈

  1. 現代語訳はすべて木田沢ダイタによる。
  2. 月舟和尚は江戸時代前期の曹洞宗の僧である。月舟は字であり、諱は宗胡、号は可憩斎、俗姓は原田氏である。元和四年4月5日(1618年5月28日)~元禄九年1月10日(1696年2月12日)。金沢大乗寺の二十六世。道元への復古を目指した宗統復古の先駆者・曹洞宗中興の祖とされる。多くの書を残した。
  3. 観無量寿経「願我未来 不聞悪声 不見悪人」:お願いですから、未来において悪人の声を聞くこともなく、悪人を見ることもないようにしてください。
  4. 世田谷城跡

原文

一、武州荏原郡瀬田が谷村豪徳寺(曹洞)は、北沢村の淡島より西南の方凡十三四町にあり、又中渋谷道玄坂よりは、西の方四十余町有となん、是井伊掃部頭墓提所たり、裏門は北沢村通に有て、松杉の並木左右に繁茂し、凡一町余にして裏門に至る、又表門は南の方瀬田ヶ谷の宿の北裏手にあり、境内爪先あがりに自然に高く且広大に寂々寥々たり、栗鼠リスマシラ諸鳥の声のみ有りて、清閑の伽藍といふべし、山内モミの樹の肥大なるは若干にして、中門の左右取分太しく、何れも三かヽへより四かヽへに至る、又本堂の前には桜の大樹有り、枝四方へ垂茂する事凡そ八九間、其形臥龍の眠れるに似たり、予が遊歴せしは皐月の初なれば、花盛を見ずして残多し、扨亦中門より南の惣門迄の間左右崖にして、躑躅一面に生茂れり、花の頃はいかばかりの壮観ならんに、片鄙なれば更にしる人なし、且鐘楼の銘は、延宝三年とあれば、文化十一甲戌年に至りて百四十年に及べば、井伊家江州彦根の居城に定てより後の建立とみゆれば、さして古き寺院にあらぬと見へたり、此鐘楼堂の作事軒低く、鐘地より上僅三四尺放れて甚低く釣上たり是に依てツキ座の前に床几に似たる四角の臺を置、是に四方の蒲団を敷道心と覚しき禅門壹人楽座し、山内の番人旁爰に座し居て、法要の度々鐘を撞くと見へたり、珍数鐘楼になん、扨本堂は南面して広サ拾間余、座禅堂は本堂より折曲りて東面せり、又本堂の軒下に三字の額懸れり、中門表門とともに額はおのおの月舟の筆たり、表門より瀬田ヶ谷の駅へ南の方五町もあらんか、此地空山寂寞として道心の生ずるといひしは、かヽる閑寂の静所にやあるらめ、繁花の俗事を離れたれば、識浪を静めて心月を観ずるには、究竟の土地にこそ、左はいへ酒やは三里、豆ふやへ貳里有て、万の事嘸不弁利にやあらん、然れ共不聞悪声不見悪人の金言思ひしられて、六根ながら穏かに四時花鳥に慰み、湖月林風相ともに清く、隠者の寓居はかヽる僻地ぞよからん、江戸より凡三里半、額字の筆法左の如し、古城の址は寺の東の山なりと、叢林登るべからず。

十方庵遊歴雑記

底本は江戸叢書刊行会『江戸叢書』所収のもの(国会図書館デジタルライブラリーにて公開)。