北沢村淡島の灸点

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19世紀の江戸近郊紀行文である『十方庵遊歴雑記』初編 巻之上 弐拾七 「北沢村淡島の灸点」の現代語訳および原文である。

現代語訳

[1] 一、武蔵国世田ヶ谷領北沢村[2]淡島大明神というのは、中渋谷道玄坂の上、石地蔵[3]から右に入って[4]20余町[5]、臺座村[6]より8町[7]という。

寺を森巌寺(密宗)と号す。当時の住持(住職)は灸をすえることについて神の応えがあったと称し、毎月三と八がつく日には未明から終日灸を据える。淡島明神から夢想のお告げがあって、名灸の治療法を得たとか。大きなもぐさよりも三倍大きなものを3灸ずつ据えるが、この灸の治療をしてから必ず、そのあとから腫れ物のように膿が大量に出るであろう。そのようなときには全身の固まった血や悪い毒がすべて出尽くし、無病壮健にになる。ありとあらゆる症状にいいといい、広めた。

そのため、人々はこれを信じて、三八の日は山のように群れ集まり、灸を据えてもらおうとする。よく来る人は講中といい、一番から五十番までは札をとっておいてもらって、灸を据えてもらうことができる。それで、予約なしに来た人は、徹夜して三と八のつく日は早朝に来たとしても、人より先に施術を受けるということはない。朝から暮れまでに番号が300以上になることもよくあるという。

わたしは4、5年前から行って様子を見たいと思っていたが、今年文化十一年(1814年)三月、めずらしく都から離れた花を訪れようと思い、四ッ谷、青山、千駄ヶ谷、道玄坂辺を見めぐり、北沢村へと遊行した。実に人の口に風聞で伝えられているとおり、森巌寺の門前には、新たに酒食を提供する家が3、4軒が広々と路傍に並んでいる。遠くから来た人は宿泊もできる。その家々の部屋は多く、広々としているようだった。

人の出入りが多い中、食事をする人、酒を飲む人、居眠りする老夫、待ちくたびれてあくびする少女。また、来る者・帰る者。家ごとに座っている人、寝転んでいる人がいて、さながら温泉の湯治場のようである。また、門外の出茶屋からは待ちくたびれた人の番号を高らかに呼び出す者もいた。こうして門を入り、境内を見たところ、玄関と思われるところに大勢集まって見ているのは番号を示したものであるらしい。

この寺は近ごろ類焼したそうで、僧房は北側にあって、完成して間もないようであった。

さて、淡嶋明神の祠は南の垣根通りの土手ぎわにあるが、みすぼらしい板囲いのわずか1間四方のほこらの中に据え置いてある。灸の治療の噂は広いが、社の壇が狭く粗末なのには見て驚いた。この神の霊告によってこの寺が反映したのだから崇敬の仕方もあるだろうに、番小屋のようにむさ苦しいありさまは笑止というしかない。

そういうわけで、この地は田舎の何事も不便な片田舎にこのように軒を並べて家があり、都や郊外の男女が集まってくるのは、寺はもちろん、村の潤いとなっているのであろう。

灸の治療をして帰る人を見ると、男は左の足の内膝の裏に灸の跡がある。女は右の内膝の裏に灸を据えてある。それ以外の点法はない。謝礼には淡島明神へ初穂料十二銅(十二文の賽銭)と定められているが、尊卑によって増減することもあるという。病気の症状がすべて治るまでは、三と八のつく日ごとに来て灸の治療をするのをよしとし、自宅でたくわえたもぐさに据えたときは功能がないといって六斎日には必ず通う人がいるという。

しかし、私の知古の人のうち九人がここへ通って灸の治療をした。二人は確かに日ごろの病が治って全快した。七人はみな日常の動作もできなくなり、長い間床に寝起きし、服薬してようやくもとの症状に戻った。

人々の本来の性質にもよるのであろうが、それで悪口を言う人もあり、尊ぶ人もあり、いろいろな人の心の違いもまた面白い。

だいたい道玄坂から北沢村まで20町あまりの間、ずっと俗地であって、春は花なく、夏は日影なし。もみじのころはどうだろうか。眺望もなく囲まれていて大変退屈した。二度と遊歴する土地ではない。江戸からもおよそ四里もあるのだ。

注釈

  1. 現代語訳はすべて木田沢ダイタによる。
  2. 明らかに下北沢村の誤り。下北沢村が世田ヶ谷領というのも正確ではない。
  3. 宝永三年(1706年)に道玄坂上に建立された豊沢地蔵のことか。
  4. 滝坂道に入ったことになる。
  5. 20町は約2180mということになるが、実際にはそれほどの距離はない。
  6. 代田村の誤りと考えられる。現在の淡島交差点付近には代田村の飛地(下代田)があった。なお、北区豊島の小字である「臺坐」を同書では「代田」と誤記しており、混乱が見られる。
  7. 8町は約800mだが、こちらも実際にはそれほどの距離はない。

原文

一、武州世田ヶ谷領北沢村淡島大明神といふは、中渋谷道玄坂の上石地蔵より右へ入て二十余町、臺座村といふより八町といえり、寺を森巌寺(密宗)と号し、当時の住持は、灸点に感応せしとて、毎月三八の日には、未明より終日灸点を施し淡島明神より夢想の告によりて、名灸の治法を得たりとかや、大の艾よりも三増倍大きなるを三灸づヽすえる事なり、然るに此灸治して後必ず、その跡より腫物如くいぼひ膿夥しく出べし、かくの如くなる時は、惣身の凝血悪毒悉く出尽し、無病壮健なり、一切諸症の煩ひに善しといひ、広めるが故に諸人これを信じて、三八の日は山をなして群集しつヽ、施点に預らんが為に、繁々に来る人は講中と号し、一番より五十番までは札を除置もらひて灸点にあふ事となん、依て振がヽりに来る人は、夜を籠て三八の日は早朝にいたるといへども人先の施点にあふ事はなりがたし、朝より暮に及ぶまで、番数三百有余に満るは儘ある事とかや、予四五ヶ年以前より罷りて様子見んものと思ひしに、今年文化十一年甲戌三月めづらしく辺鄙の花を尋んと、四ッ谷、青山、千駄ヶ谷、道玄坂辺を見めぐり、北沢村を遊行するに、実にも人口に風聞する如く森巌寺の門前には、新たに酒食をひさく家三四軒然も広々と路傍に建つらね置、遠く来る人は止宿もするよし、いかにもその家々幾座敷となく間広々と見へたり、人の出這多かる中に、食事をしたヽむる人、酒を酌人、枕せる老夫、待詫びて欠する少女、又来るもの帰るもの家ごとに、座せる人、平臥せる人、さながら温泉の湯治場の如し、又門外の出茶屋よりは、待詫たる徒を番数高らかに呼出すもありけり、斯て門を入境内を見るに玄関と覚しき所には、大勢群集して見へしは、番数の着帳にやあるらん、此寺近頃類焼やしたりけん、僧房は北側にありて、作事出来して間もなき容体に見ゆ、扨淡嶋明神の祠は、南の垣根通の土手際にあるに、甲斐なき板囲ひの纔か壹間四方のほこらの内にすへ置ぬ、灸点の噂さは広けれど、社壇の狭く麁抹なるには、又、目を驚かせり、此神の霊告によりて、斯寺の繁栄する事なれば、崇敬の仕様模様もあらんに、番小屋の如くいぶせきありさまは笑止いふばかりなし、されば此地田舎のよろづ不便利の片鄙に斯軒をならべて家居し、都鄙の男女集ひ来るは、寺は勿論一村の潤ひなるべし、彼灸治して帰る人を見れば、男は左の足の内膝の引かヾみに灸の跡あり、女は右の内膝の引かヽみへ灸治し、別に外の点法なく、謝礼には淡島明神へ初穂拾貳銅の定めあれど、尊卑によりては多少もありとなん、病症全く治する迄は、三八の日ごとに来て灸治するをよしとし、我宅にして貯ふる艾にすえる時は功能なしとて、六斎には必づ通ふ人ありとぞ、然るに予が知古の徒の内九人、彼処へ通ひて灸治せしが、貳人はいかにも日ごろの病ひ治して全快し、七人は悉くいぼひて起居動静もなりかね久しく床に起臥服薬して漸くに本症に服しける、人々の性来にもよるにや依て謗る徒あり、貴ぶ人あり、いろいろの人ごヽろも又面白し、凡道玄坂より北沢村迄二十余町が間、一向の俗地にして、春は花なく、夏は日影なし、もみぢの頃はいかヾあるらん、眺望なく打圍みて甚退屈せり、ふたヽび遊歴する土地にはあらず、江戸よりも凡四里もあるべし。

十方庵遊歴雑記

底本は江戸叢書刊行会『江戸叢書』所収のもの(国会図書館デジタルライブラリーにて公開)。