中原商店街

提供: 下北沢百科
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中原商店街は、小田急線世田ヶ谷中原駅(現世田谷代田駅)から帝都電鉄代田二丁目駅(現新代田駅)の間、堀之内道沿いにあった商店街である。かつては下北沢よりも賑わっているといわれるほどであったが、堀之内道が環七に拡張される際に商店街が分断され、そのまま往時のにぎわいを取り戻せなくなってしまった「道路によって失われた商店街」である。

『昔の代田』より、戦災前の中原商店街の復元図を整形。

『昔の代田』より

 昭和初期の中原商店街は、世田谷中原駅代田二丁目駅の周辺とその間の堀の内道約五〇〇mにあり、それを外れると商店は住宅の間にぽつぼつとある位。道幅は一〇m足らずで簡易舗装というささやかなものであった。代田二丁目駅を北に向かって歩くと、現在の区役所出張所あたりから西側は五〇m位に亘って細野家の屋敷林が五〇m位に亘って茂っており、車も人通りも少なくなってしまう。(中略)

 戦争中 敵の焼夷攻撃の被害を軽減するため、重要対象物の周辺や主要道路の両側は、強制的に撤去疎開させられた。堀の内道も主要道路としてその対象になり、付近住民は女手も含めて連日その作業に動員された。そして代田二丁目駅付近の長さ二〇〇m 道路の西側幅約三〇mの中にある六七戸の家を取り壊した所で終戦になった。するとたちまち元の幅員の線に家が建ち始めてしまった。

☆中原商店街 昭和一四~五年から開戦前の商店街の姿を現した。

— 『昔の代田』第一編(今津 博)35~36ページ

復元図によると、現在も残っているのは「成田不動尊」(現代田不動尊)、「宮川鰻店」(現宮川 世田谷店)、新壽湯くらいのものと思われる。

戦後の中原商店街

{{ 環状七号線は昭和二年に都市計画決定し、当時既に完成した部分もあったが、殆どが未着工のままであった。東京オリンピック開催が決定しその会場整備が始まると、環七は重要路線となり、突貫工事の末昭和三九年七月幅員二五mの道路が完成したのである。モータリゼーションの時代に入って、東京の環状道路の必要性が叫ばれていた折でもあり、環七の完成は利便上から地元の我々も歓迎した。しかしこの考えの間違いであったことに気がつくのに時間はかゝらなかった。排気ガス・騒音公害問題であり、通過交通による地域社会の分断である。商店街が成り立たなくなって、日常の消費生活は完全に周辺に分散してしまった。世田ヶ谷中原駅と代田二丁目駅間の堀之内道にあった あれだけの商店街(約一三〇軒)が消滅してしまったのである。|『昔の代田』第一編(今津 博)36~37ページ}}

中原商店街は、戦後の昭和二十六年(1946)には「代田商店会」と名を変え、最大で200店舗にまで膨れ上がった[1]。しかし、昭和三十九年(1964年)の東京オリンピックまでに環七通りを羽田空港から足立区鹿浜橋まで開通させることとなり、その前年には商店街のほとんどの店舗が立ち退きを余儀なくされた。これにより、かつての大商店街は壊滅し、現在、代田商店会に属する商店はわずか40店舗ほどであるという[1]

注釈

下北沢地域商店街

●=東京都商店街振興組合  ★=世田谷区商店街連合会加入任意商店会  ☆=世田谷区商店街連合会未加入任意商店会