瀬田谷領三軒茶屋の都会
19世紀の江戸近郊紀行文である『十方庵遊歴雑記』二編 巻之中 第壹「瀬田谷領三軒茶屋の都会」の現代語訳および原文である。
現代語訳
一[1]、武蔵国荏原郡瀬田ヶ谷領三軒茶屋というのは、渋谷道玄坂町から西の方20余町にあって、相模国大山石尊[2]へ通行する街道[3]の四つ辻なので、いい立地で目立つ酒店・茶店などが両側に並んでいる。棟の数はわずか七、八軒でしかないものの、あちこちから人が落ち合う都会の土地であるため、大変賑やかである。
それゆえ、ここを三軒茶屋という地名で呼ぶのは、往来の旅客が来てこの辻で休み、思い思いに三方四方へ分かれていく交差点なのでそのように言い始めたのであろう[4]
つまり、西の方は20余町で瀬田がやの宿、そこからさらに西の方は糸を引いたように大道がまっすぐ伸びて、甲府街道・府中駅へ四里半あるという[5]。また、ここから右の小路を入れば北沢村から代々木などへ行ける[6]。また、南の大道は厚木、二子の渡し、栗原等へ通い行く大山街道[7]なので、普段は往来が少ないものの、富士詣でのころは旅客が絶えることがない。
この道筋は俗地であって素晴らしい眺望はないが、田に畑に野に平山に、と所々風景が転ずるのも面白い。私が志す遊歴のつまるところ、花によく紅葉によいところである。江戸から三里半ほどであろうか。
注釈
- ↑ 現代語訳はすべて木田沢ダイタによる。
- ↑ 大山阿夫利神社のこと。「おおやま せきそん」と読む。
- ↑ すなわち大山道。
- ↑ ここに信楽(石橋楼)、角屋、田中屋という茶屋が三軒あったからという話はまったく出てこない。すべて著者の臆測でしかない。
- ↑ 実はこちらの方が途中まで大山道の旧道にあたる「上町・慈眼寺線」。下記の「南へ行く」方の新道(新町・行善寺線)は文化文政期に作られたとされているが、この記載からすれば文化十一年以前には新道ができていたということになる。
- ↑ ただし、この時代にはまだ茶沢通りは存在していない。
- ↑ 大山道もいろいろあるが、ここでは青山通り大山道、別名矢倉沢往還を指す。宿場は、三軒茶屋、二子・溝口、荏田、長津田、下鶴間、国分、厚木、伊勢原、曽屋、千村、松田惣領、関本、矢倉沢、竹ノ下。地名の順序も前後している。「栗原」は不詳だが、現・座間市の栗原が近いかもしれない。
原文
一、武州瀬田ヶ谷領三軒茶屋といふは、渋谷道源坂町より西の方貳拾余町にありて、相模の国大山石尊へ通行する街道の四辻なれば、