十方庵遊歴雑記
『十方庵遊歴雑記』:十方庵敬順(釈敬順)著。
概要
隠者となった十方庵敬順が19世紀前半の江戸付近の名勝古跡を遊歴踏査した紀行文である。全5編。
文化十一年ごろの江戸近郊の紀行文として重要なものであるが、実際に精読すると不十分な点も多々見られる。たとえば「北沢村淡島の灸点」では「代田村」を「臺坐村」と書き、「豊島村大道法師の塚」では地名「臺坐」を「代田」と逆に記している。また、三軒茶屋という地名の由来について、茶屋が三軒あるという情報がまったく記されていない。したがって、本書の内容を鵜呑みにするわけにはいかないが、個人の体験については貴重な証言として受け取っていいだろう。
十方庵敬順
1762‐1832。十方庵主は、名を大浄、字を敬順・宗知という。本姓は津田氏で、織田信長の子孫と伝える。津田隼人正(盛月)(信長の兄の子)の子、津田信賢が三河の本法寺(真宗)に入り、寺主敬映上人の弟子となって賢順と改名、廓然寺と号した。その後子孫が廓然寺を継いだ。この寺は本法寺の子院である。このため、本法寺が江戸に移ると、それに従って江戸に移ってきた。
十方庵は賢順8世の裔である。江戸本所生まれで、牛の御前を産土神とした。11歳のときに江の島で遊んだことがあるという。天明元年3月、近藤知新庵の茶道を学び、翌年3月、小島卜斎の忍ヶ丘の茶室に入り、十種香を模して十煎茶を工夫した。また、その間に枇杷を鴨田検校に学んだという。文化八年、51歳のときに寺のことを子の大恵に譲った。遊歴雑記の序文は文化十一年(1814年)八月の日付となっている。
本法寺
本法寺は近江堅田で創建されたが、その後三河に移転、さらに宝永二年(1705年)に小石川小日向(現・文京区1-4-15)に移転してきた。本法寺には夏目漱石の実家の墓もある。
廓然寺は明治12年に廃寺となっている。
当サイトでの引用
底本は江戸叢書刊行会『江戸叢書』所収のもの(国会図書館デジタルライブラリーにて公開)。
- 初編 巻之上 弐拾七 北沢村淡島の灸点(森巌寺)[1]
- 初編 巻之中 四拾貳 瀬田がや村豪徳寺(豪徳寺)[1]
- 二編 巻之中 第壹 瀬田谷領三軒茶屋の都会(三軒茶屋)[2]
- 三編 巻之上 拾四 豊島村大道法師の塚(北区豊島のダイダラボッチの塚)[3]