せたがや百景
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せたがや百景(せたがやひゃっけい)とは、1984年(昭和59年)に世田谷区が発案し、世田谷区民の投票によって選出された風景・景観百選である。
以下の記事は選定から7年後の1991年に世田谷区から発行された冊子『せたがや百景』に基づいている[1]。
百景選定の趣旨と経過
もちろん「まちづくり」のにない手は、区役所や東京都、政府といった公共部門だけではなく、いろいろな事業を行なう企業、それに、「住み手」「生活者」である皆さん自身もそうです。それぞれが協力し合わないと、好ましい風景を守り育てることもつくってゆくこともむずかしいことはいうまでもありません。では、みんなの協力で大切にしてゆくべき風景とはいったいどういう風景なのか、みなさんの日常生活空間つまり足元の町から掘り起こしてみよう。そして、皆さんの共通の感性と理解のもとで「百景」として選び、今後の世田谷のまちづくりを考える原点にすえよう。これが百景選定の発想と趣旨でした。 — 世田谷区企画部都市デザイン室 田中勇輔、『せたがや百景』[1] 27ページ
せたがや百景選定委員会で立てられていた選定基準は以下のとおり。
- 区民のだれもが見ること、加わることができる風景
- 多くの区民の愛着・共感を集めている風景
- このまま持続することが期待できる風景[2]
- 大小にかかわらず、その町の景観の顔となっている風景
- 区民の運動・努力の結果として守られている風景
- 地域の持つ歴史、風土、文化が現れている風景
- ユニークさを持つ風景、あるいは、世田谷独特の風景
- 催し、行事などを含め、コミュニティーの雰囲気がにじみ出ている風景
1984年4月半ばから5月上旬にかけて、「発見 わがまちのいい風景」をキャッチフレーズに「好ましい風景」を募った。その結果、述べ2700景、重複を整理して400景近い風景が寄せられた。委員会では200景に絞った上で投票してもらうことにしていたが、寄せられた風景の中で上記の選定基準から外れているものはわずかしかなかったという。
7月に200の百景候補を発表。投票用紙1枚につき5景まで記入できることとし、8月半ばまでの1カ月半を投票期間とした。投票総数は9万2000票に達した。委員会は得票順に100位までの風景を並べ、投票結果どおりに「せたがや百景」を選出した。9月半ばに区長に答申、10月10日の区広報臨時号で特集を組み、公表した。
世田谷百景
以下の解説文は、1984年当時の冊子『せたがや百景』からの引用である。なお、下北沢地域に該当する項目はそれぞれ独立項目としている。
- 世田谷公園(池尻1-5):中央広場の噴水を挟んで北側がスポーツ施設。南側の公園ではプレイパークが開かれている。園内の小高い丘には区制50周年(昭和57年)を記念して、子ども達から50年後の子ども達へのメッセージなどを入れたカプセルが埋められている。ミニSLは土・日や祝日、学校の休みに合わせて走り大変な人気を集めている。
- 大山道と池尻稲荷(池尻2-34-15付近):大山道の面影を訪ねることができる。街道沿いにあった池尻稲荷には「涸れずの井戸」がいまもこんこんと湧いている。江戸市中を発った旅人は道筋ここまで飲み水がなく、この井戸で喉を潤したという。
- 世田谷観音とその一帯(下馬4-9-4付近):昭和新選江戸三十三観音礼所のうちの三十二番礼所にあたる。戦後建立の寺で、区内で最も新しい。京都の六角堂を模した不動堂には、運慶の孫の康円の作といわれる、国の重要文化財の不動明王と八大童子が納められている。また、太平洋戦争で散った特攻隊員を祀った特攻観音堂がある。
- 世田谷線(玉電)が走る:東急世田谷線は三軒茶屋と下高井戸を結んでいる。住宅街を縫って走る沿線にはのんびりとした風情がただよい、百景に選ばれた所も多い。玉電(たまでん)と呼ばれて[3]、多くの区民から愛されている。
- 太子堂下ノ谷界わい(太子堂2丁目、4丁目):茶沢通りの中ほどから入ったところに下の谷商店街がある。下町情緒の懐かしい雰囲気の店が並んでいる。第一、第三日曜日の朝9時から10時まで朝市が立ち、賑わう[4]。まちと人々がつくり出す原風景とでもいったものが見られる一帯だ。
- 太子堂圓泉寺とけやき並木(太子堂3-30-8):聖徳太子を祀った太子堂の由来から地名が生まれたという。明治4年、境内に「郷学所」が設けられ、世田谷の教育発祥の地となったところだ。ケヤキの大木の並木は、農村だったころ区内随所に見られた屋敷林の名残ともいえる。秋の境内は紅葉したケヤキやイチョウの落葉で黄色のカーペットが敷かれる。
- 北沢川緑道桜並木と代沢の桜祭り(代沢3・4・5丁目付近):代沢地区の北沢川緑道の両側には、桜並木が続いている。満開になると花のトンネルになり、花見の宴が繰り広げられる。地元主催の桜祭りには甘酒の無料接待やパレードなども行われる。
- 代沢の住宅街(代沢2・3丁目一帯):関東大震災後の区画整理で誕生した世田谷の代表的な住宅街。戦前から高官や著名人が居を構えた。坂が織りなす地形の表情が変化に富み、散歩には好適。生垣に四季の移ろいを楽しむことができる。
- 代沢阿川家の門(代沢3-9-16):江戸時代にこの一帯の名主だった阿川家の門は美しい紅殻色に塗られている。屋敷林の緑、そして紅葉のとき、門の色に照り映えても見事である。門越しにのぞく母屋も昔の名主屋敷の遺構を残し、代沢のまちの歴史をとどめた静かな一角だ。
- 北沢八幡の秋祭り(代沢3-25-3):世田谷北辺の守護神として、吉良家によって勧請された。世田谷七沢八社随一、正八幡と称され、人々の尊崇を集めてきた。秋の例大祭には30台もの神輿が出て、境内一帯は人々で賑わう。とくに神輿が境内に繰り込む時は圧巻で、まるで絵巻物を見るようだ。
- 淡島の灸の森巌寺(代沢3-27-1):江戸時代の初め、徳川家康の次男結城秀康公の位牌所として建立された。建物に三葉葵の紋所が見られる。また境内には、樹齢400年のイチョウが一対と、お灸と2月8日の針供養で知られる淡島神社がある。森巌寺や北沢八幡、阿川家の屋敷林のあるこのあたりは緑深い木々に包まれている。
- 若者と下北沢のまち:本多劇場、ロングラン・シアター、ザ・スズナリなどの劇場があり、演劇の新しいメッカとなっている。まちにはたくさんの若者が訪れ、ユニークな店も目立っている。探れば探るほど、多くの顔を見つけることのできるまちといえるだろう。
- 下北沢北口の市場(北沢2-24):暮らしに密着した食料や衣料などが所狭しと並び、活気に満ちている。通路が買い物客で身動きできないほど賑わう。戦後間もないころのことがふと思い出される。買い物客が引け、店が閉まった後の風情も捨てがたい。暮らしのエネルギーが残してきた風景といえよう。[5]
- 天狗まつりと真竜寺(北沢2-36-15):小田原大雄山最乗寺の分院真竜寺は昭和4年に下北沢に建てられた。小さな石段を上がって境内に入ると、大きな天狗の面が目につく。節分の日の天狗まつりには、天狗の面と大天狗、裃姿の年男などが豆をまきながら商売繁昌、家内安全を祈り、商店街を練り歩く。
- 下北沢の阿波おどり:8月、地元の諸連が総出で踊りまくる。下北沢のまちには阿波踊りが不思議なくらいよく似合う。今では、下北沢の夏には欠くことのできない一大イベントとなっている。工夫をこらしたそれぞれの踊りを見ていると、いつまでも飽きない。
- 羽根木神社の参道(羽根木2-8):都水道局和田堀給水場近くに羽根木神社の小さなお社がある。今は家が建て込んで、農村だったころの面影はほとんどないが、社まで続いた参道のケヤキ並木が地元住民の運動によって一部残されている。風景変遷のものいわぬ証人だ。
- 梅と桜の羽根木公園(代田4-38):梅ヶ丘駅北口の小高い丘が区立公園になっている。以前は六郎治山とか根津山と呼ばれていた。梅林には梅の木が約650本植えられ、2月下旬紅梅白梅の咲きそろうころには多くの人々が訪れる。また春には桜の名所でもある。子ども達自身が遊びを工夫し、自由気ままに遊べるプレーパークも設けられている。
- 松陰神社と若林公園(若林4-34、35):安政の大獄で刑死した吉田松陰は、南千住の回向院に葬られた後、門下であった高杉晋作らの手によって若林村の毛利家抱屋敷内に移されたが、明治になってここに社殿が建てられ松陰神社となった。社殿の左手奥に松陰と志を同じくした人々の墓がある。隣接の若林公園の木立は盛夏涼しい木陰を作り、人々の憩いの場となっている。
- 上馬の駒留八幡神社(上馬5-35-3):鎌倉時代後期、このあたりの地頭だった北条左近太郎入道成願は、八幡宮の勧請を誓い、乗った馬の留まったところに社殿を造ろうとした。これが現在の地で、馬が留まったところから駒留と名付けられたといわれる。戦国時代には吉良氏との縁も深く、常盤と死産した吉良頼康の子が祀られている。
- さぎ草ゆかりの常盤塚(上馬5-30-19):世田谷城主吉良頼康の側室常盤の悲しい物語にまつわる塚が、上馬のまちの家と家との間にひっそりとある。常盤の放った白鷺があわれ頼康の鷹狩の手にかかり、その骸を葬った地には一面のさぎ草が咲いたという。現代のまちの中に伝説を蘇らせる一隅の小風景だ。
- 招き猫の豪徳寺(豪徳寺2-24-7):井伊家の菩提寺。幕末の大老井伊直弼の墓もここにある。区内有数の名刹で、広い境内には江戸開府のころ「オイデオイデ」の手招きで井伊直孝を危険から救ったという招き猫の伝説の招福堂や鐘楼、本堂が立っている。福を呼ぶ招き猫が門前で売られている。
- 世田谷城址公園(豪徳寺2-14):初代吉良氏が南北朝のころ、関東管領足利基氏から戦の手柄により武蔵国世田谷領をもらいうけて、築城したのが始まりといわれる。平城で、三方を塀で囲んだ防備の堅固な城であったが、現在はわずかに小高い台地の中に枯山水風の谷や小川があり、緑の茂る公園となっている。
- ボロ市と代官屋敷(世田谷1-29-18付近):ボロ市通りには毎年12月と1月の中旬にボロ市が立つ。北条氏の楽市を起源に持つこのボロ市は、四百年の伝統を持ち、今も賑わいを見せている。通りの中ほどには茅葺の武家屋敷門の代官屋敷がある。これは江戸時代の中ごろ、初代の代官に任ぜられて以来、代官を勤めた大場家の屋敷が残されたものだ。敷地内には世田谷区立郷土資料館もある。
- 蛇崩川緑道:下馬から三軒茶屋・上馬・弦巻まで全長約3キロにわたって続く。蛇崩川にフタをして作った緑道で、地下には現在下水道の幹線が通っている。サクラ、フジ、サツキ、アジサイ、クチナシなどが季節季節に花咲き、道行く人を楽しませる。
- 駒沢給水所の給水塔(弦巻2-41-5):大正末期にできたこの給水塔の姿は、付近の人に長い間親しまれてきた。木造の平屋や2階建ての家々ばかりだったころは、現在よりもさらに目立っていたことだろう。ランドマーク(土地の目印)として一対の給水塔は今も健在だ。
- 弦巻實相院界わい(弦巻3-29-6付近):吉良家開墓の寺院で、正式には鶴松山實相院。禅寺にふさわしく、境内には木々がうっそうと茂り、森閑としている。まちの中の寺とは思えない風情があり、鳥の声に耳を澄ましたくなる。代官屋敷のちょうど裏手あたりになるが、この辺は江戸時代の世田谷の中心だったところだ。
- 宮ノ坂勝光院と竹林(桜1-26-35):世田谷城主吉良家の菩提寺。江戸期には家康から御朱印寺領30石を与えられた格式の高い寺で、境内には風格のある庭木も見られる。とくに美しいのは竹林で、竹垣とあいまって品のよい雰囲気をかもし出している。鐘楼の梵鐘は、戦争中応召されたが、鋳つぶされず、10年ほど前に元の姿で無事戻ってきた。
- 収穫祭と東京農大(桜丘1-1-1):農業大学にふさわしく、緑の多い構内に校舎が建っている。正門を入ってすぐ化石植物メタセコイヤの小さな林がある。またイチョウは、東京管区気象台から委託を受けた生物季節観察標本で、東京の紅葉時の目安となっている。秋の収穫祭には学生、教師、住民ともに実りの喜びを祝う。
- 経堂の阿波おどりと万燈みこし:ハイライトは万燈神輿(ばんとうみこし)。夜のまちに神輿の胴の武者絵が浮かびあがり、提灯の灯が揺らぐ。これを、かつぐために、威勢のよい若者が関東近県から500人も集まるという。阿波踊り参加者も毎年増えている。
- 奉納相撲の世田谷八幡(宮坂1-26-3):石の鳥居をくぐると、右手に弁天池がある。その少し上手に土俵が設けられ、観客席がちょうど円形劇場のように広がっている。奉納相撲で知られるこの八幡は、吉良頼康の創建と伝えられる。江戸時代には「江戸三大相撲」の一つといわれるほど有名になり、現在も秋季大祭の9月15日には、学生や若者の奉納相撲が行われる。
- 北沢川緑道ユリの木公園(宮坂2丁目):北沢川緑道でもこのあたりは都会的な趣きのある遊歩道だ。レンガタイルを敷き、芝生を植え、スツールが置かれていて、公園のような緑道となっている。近所の人々のゆきとどいた手入れで、いっそう心地よい憩いの空間となっている。
- 松原のミニいちょう並木(松原6-22、23):松原の住宅街のなかにかわいらしいイチョウ並木がある。戦前、別荘の敷地のなかに植えられていたものが、戦後の住宅地化のなかで生き残って、今の姿になった。まちの小さな一角に季節の訪れを告げ、付近の人々から親しまれている。また戦災から焼け残った昭和初期のモダンな住宅が見られるのも楽しい。
- 松原の菅原神社(松原3-20-17):境内に朱塗りの社殿が目立つ。江戸時代、石井兵助という人が寺小屋を開き、学問の神様である菅原道真公を祀ったのが始まりだろうと伝えられる。いまも学業祈願、合格祈願の絵馬札がたくさん下がっている。
- 下高井戸の阿波おどり:「おどらにゃ、そんそん……」町会・商店会を中心に始めた下高井戸の阿波踊りは年々規模が大きくなってきた。本家に負けない熱気と興奮が町を包む。[6]
- 日大文理学部の桜(桜上水3-25):新学年に満開の桜は欠かせない風物詩。日大文理学部には立派な桜のアーケードがあり、勉学に意欲を新たにする学生たちを迎えてくれる。青春時代の学び舎の忘れがたい風景として、記憶されている。
- 上北沢の桜並木(上北沢3丁目):住宅街の道の両側に桜並木がつづいている。桜は毎年欠かさずこのまちに訪れる春を確かめてきた。地図の上で見ると、中央の通りからちょうど肋骨のように規則正しく斜めに、枝道が延びている。この道が肋骨通りと呼ばれる由縁だ。区画整理された際に桜の木が植えられたことが分かる。
- 船橋の希望丘公園(船橋7-9):ガスタンク群や清掃工場、団地の三つの大きな建築物が空を圧しているなかに、公園がある。小高い丘に木が植えられ、芝生がきれいだ。園内には水が巧みに設計して取り入れられており、水が流れる広場は周囲の風景に清涼感を与えている。
- 廻沢のガスタンク(粕谷1-7-8):巨大な球形のガスタンクもいつの間にか、まちの風景の中に溶け込んでいく。朝日を浴び、夕日に照らされ、雨に霞んで、一冴の風情さえ帯びてくる。都市風景のなかで一際目立つランドマークだ。
- 芦花公園と粕谷八幡一帯(粕谷1丁目):芦花恒春園は、文豪徳富蘆花が明治40年から昭和3年の死亡までの20年間を、愛子夫人とともに過ごしたところで、園内には蘆花記念館と当時のままの書院、母屋が残されている。裏手には、児童公園や散策によい公園が続いている。近くの粕谷八幡には蘆花ゆかりの「別れの杉」二代目が植えられている。このあたりは緑の深い趣のあるところだ。
- 粕谷の竹林(粕谷2-11):世田谷からは竹林も姿を消しつつあるが、粕谷あたりには、はっとするほど見事な竹林がまだまだ残っている。風が渡るときなどは、ほんとうに素晴らしい。春、垣ごしに頭を出している竹の子を見つけるのも楽しい。残して欲しい風景だ。
- 烏山西沢つつじ園(北烏山6-15、16):4月から5月の初め、満開時の西沢つつじ園は色彩の乱舞する華やかさでおおわれる。ツツジ、サツキの品種も多く、愛好家はもちろん多くの人々が訪れる。入り口付近の年を経たカラタチの大木も珍しい。園内では苗木の販売も行われ、遠くから買い求めに来る客もあると聞く。
- 烏山寺町(北烏山2・4・5丁目):東京の小京都といわれるこの一帯は寺院が連なり、静かで緑濃いたたずまいとなっている。関東大震災後、被害にあった都心の寺院が移転して寺町はできた。景観を守るために、地域の住民の手で自主的に環境が保持されていることにも注目したい。一日ゆっくり寺々を訪れれば、それぞれ見所の多いところでもある。
- 烏山の鴨池(北烏山4-30-1):寺町の北の外れにある高源院の鴨池には、秋も深まるとたくさんの鴨が飛んでくる。コガモ、カルガモ、マガモなどが、浮御堂を映した水面を泳ぐ。夏には睡蓮などが咲き乱れ、赤い欄干にもたれていつまでも見飽きない。湧き水の涸れることのないこの池は、地域住民の環境協定で守られている。
- 北烏山の田園風景(北烏山7-30付近):都会の緑の保全に都市農業が役立っていることが見直されている。田園風景などとっくに世田谷から消えたと思っている人も多いが、この一帯には生産緑地としての畑が残っている。田園風景の広がっていた世田谷の昔日が思い出される。
- 旧甲州街道の道筋(南烏山3丁目~給田3丁目):南烏山から給田へとつづく道はかつての甲州街道。昔の街道筋を偲ばせる風景はほとんど残っていないが、実はこの道筋そのものが街道だったことを忘れるわけにはいかない。道の由来を知れば、その時代、時代の道筋の風景を脳裏に浮かべることもできる。
- 給田小学校の民俗館(給田4-24-1):給田小学校の一角にワラ葺のままの農家が保存されている。農具などの農村生活に深い関りがあった道具類も併せて保存され、小さな民俗館となっている。農村だったころを思い出させる。児童にとって得がたい郷土教育の教材でもある。
- 祖師谷つりがね池(祖師谷5-33):雨乞いのため、僧が釣鐘を抱えて身を沈めたことから、その名がついたと伝えられている。現在は付近の子ども達の絶好の遊び場だ。池の周辺には緑も残り、雨の降った後には池底から水が湧き出すのを見ることもできる。小さな風景だが、なんともいえない親しみがある。
- 上祖師谷の六郷田無道(上祖師谷1、2丁目):狭いうえにも交通量が多く、古い道とは想像もできない。しかし、道筋に寺や社を見つけると、かつてののんびりした往来が目に浮かんでくる。地形に素直に合っている古い道は、なぜか人の匂いがある。
- 武家屋敷風の安穏寺(上祖師谷2-3-6):寛永年間(1624-44)に建てられたといわれるが、一時荒れはてていたため詳しいことは不明。古い墓石には名字を持つものが多く、謎が深まる。車の往来の激しい坂道に沿って、山門や白壁の塀が黙然と存在している。
- 上祖師谷神明社(上祖師谷4-19-24):浅葱色をした社殿は昭和41年に建てられたもの。江戸時代から上祖師谷の鎮守だったと思われます。神明社の脇を通る道は、昔「滝坂道」といわれた街道で、現在も交通量は多い。時代の激しい移り変わりをじっと見つめてきたお社です。
- 成城学園前のいちょう並木(成城6丁目):大正末期から昭和の初期にかけて計画的に造成された住宅地である成城のまちには、まちの人々が大事にしてきた景観がそこかしこに見出される。学園前に伸びるイチョウ並木もその一つで、四季それぞれにまちに表情を与えてくれる。
- 成城の桜並木(成城6・7丁目):桜のないまちの春はなにか物足りない。満開のときなど、まちに一斉に春が訪れたことを告げてくれる。花実の宴のにぎわいはないが、路上や家々の屋根に降る花びらは、閑静なこのまちに春の風流心を呼び起こす。
- 成城学園の池(成城6-1):成城学園とともに、成城のまちは発展してきた。大学構内にある池のほとりは若い学生たちの憩いの場となっている。戦前から自由な教育で知られる成城学園の学生たちは、やはり成城のまちの雰囲気に似合っているところがあるようだ。学園裏手の仙川沿いの延びる小道をたどれば、いまは少なくなった川沿いの景観を楽しむ小散歩ができる。
- 成城住宅街の生け垣:成城のまちを歩くと、手入れのよく行き届いた生け垣を見ることができ、住民がまちを大切にしてきた歴史がよくわかる、家々に住む人々の個性や趣味がそれぞれ感じられて、興味が尽きない。
- 成城の富士見橋と不動橋(成城2~5丁目):切り通しを抜けて小田急線が走る。二つの橋はこの小田急線に架かっている。よく晴れた日は、崖線を越えて丹沢の山々や遠く富士山を望むこともできる。夕日の沈むころは、懐かしい哀愁のただよう陸橋の風景が浮かび上がる。
- 成城3丁目桜ともみじの並木(成城3-10-33付近):春の桜のころや新緑の5月ももちろん美しいが、秋の紅葉のトンネルも素晴らしい。落葉を踏みしだいて歩く趣のある散策路だ。この小風景を愛する住民も多い。車の入らないこうした小道は、まちなかに奥行きをつけてくれる貴重な空間だ。
- 成城3・4丁目の崖線:崖線に沿って緑が豊かに残されている。低地に下る坂は両側の深い緑で隈取られ大地との間に陰影をかたちづくる。まちに変化に富んだ散歩道があることは素晴らしいことだ。
- 野川と小田急ロマンスカー:崖線を抜けた小田急線はまず野川を渡る川辺の緑と一瞬のコントラストを作り走り抜けるロマンスカーは私鉄沿線ならではの風物詩。
- 喜多見氷川神社と梼善寺跡(喜多見4-26-1付近):一千年以上も前の創建と伝えられている。境内は保存樹林地となっており、昼なお暗いほどうっそうとし、野鳥も多い。長い参道をたどって社殿に至るが、村の鎮守の杜の姿そのままだ。ここに伝わる里神楽は区内の貴重な民俗芸能の一つとなっている。
- 喜多見慶元寺界わい(喜多見4-17-1):江戸氏の祖を弔って建立されたといわれる。江戸氏は皇居のあたりに居を構えていたが、家康が江戸築城のおりこの地に退き姓も喜多見と変えた。江戸氏追善の塔がある。広い寺域に沿う小道は、奥多摩から多摩川を下った筏師が歩いて帰ったという「いかだ道」で、ところどころにのどかな郊外の風景を見ることができる。
- 宇奈根氷川神社(宇奈根2-13-19):農村風景をそこかしこにとどめる宇奈根。氷川神社の境内には子ども達の遊ぶ姿を見かけることも多い。村の鎮守様は健在だ。都市化の波でつぎつぎに失われていった村の鎮守の原像を見る思いがする。秋祭りには地区の人総出で大いに賑わう。
- 砧小学校の桜(喜多見6-9-1):小学校の校庭に咲く春の桜は誰にとっても懐かしい思い出のあるものだ。砧小学校の桜の老木には地区の子ども達の入学と卒業を何十年にもわたって見守りつづけてきた。
- 大蔵団地と桜(大蔵3丁目):今を盛りと咲き誇る桜。いちばん盛んな樹齢に達した桜が団地と世田谷通りを飾る。シックな団地の壁面と見事なコントラストを作りあげる。住民の皆さんの自慢の春の眺め。
- 大蔵の五尺藤(大蔵1-9-3):大蔵の和田さん宅にある藤は、その名どおり房の長さは1メートルを越え、房の数は6千以上にもなる。5月の初旬、紫の花が満開になるころは見物に訪れる人も多く、まちの名所の一つになっている。
- 大蔵の総合運動場(大蔵4-6):都立砧公園と道を挟んで作られた運動公園で、門を入ると正面に近代的な体育館と噴水が目に入る。他に野球場、陸上競技場、テニスコート、洋弓場、プールなどのスポーツ施設が完備され、さわやかな汗を流すスポーツ・ゾーンとなっている。フィールド・アスレチックコースは子どもたちに人気が高い。
- 砧ファミリーパーク(砧公園):日比谷公園の約2倍の園内には一面緑の芝生が敷きつめられている。ゆるやかな起伏と木々が公園の景観にほどよい変化を与えている。家族連れやグループでのんびり一日楽しむには絶好の場所で、遠近各地から訪れる人々が多い。園内にオープンした区立世田谷美術館も人気を呼んでいる。
- 東名高速の橋(総合運動場の脇):大蔵総合運動場と砧公園の脇を東名高速が走っている。高速道路を跨ぐ公園橋から見た疾走する自動車群は圧巻だ。夕闇が訪れればヘッドライトの光の奔流が走る。日夜鼓動する日本の大動脈の一端を見る思いがする。
- 大蔵の永安寺(大蔵6-4-1):山門を入ると樹齢数百年といわれる大イチョウがある。永安寺は室町時代鎌倉の大蔵谷に建てられたものが、地形も地名も似たここに再建されたと伝えられている。本堂右側には江戸幕府のころ書物奉行を務めていた石井一族の墓がある。六代目兼重(かねしげ)は、世田谷地域での図書館の始まりとなった「玉川文庫」を創ったので知られている。
- 岡本玉川幼稚園と水神橋(岡本3-35付近):玉川幼稚園の建物は二・二六事件で暗殺された蔵相高橋是清の別邸だったもので、山荘風の構えがよく幼稚園にマッチしている[7]。風光明媚な国分寺崖線には戦前多くの高官や財界人の別荘別邸が立てられ、現在の良好な住宅街に引き継がれてきた。水神橋あたりには当時別荘から眺められた田園風景の面影がそこはかとなく残っている。
- 岡本三丁目の坂道(岡本3-33付近):国分寺崖線には多摩川沿いに下る坂道が何本も通っている。岡本3丁目の坂道はなかでも勾配が強く、急な坂をたどるとき国分寺崖線の斜面を実感する。坂上からは丹沢の山々も眺望できる。
- 岡本もみじが丘(岡本2-23付近):綾錦のような紅葉に松の緑を点々と散りばめた秋景は息を呑むようで、多摩川八景(行善寺八景)の一つ「岡本紅葉」とうたわれた。今、開発の手から守ろうとする地元の熱意は強い。
- 岡本民家園とその一帯(岡本2-19-1):瀬田から移築復元された茅葺きの古民家を中心に、農家のありさまが再現されている。鶏の遊ぶ庭先、野菜や草花の植えられた畑など当時そのままの姿を見ることができる。民家園の隣には岡本の鎮守様八幡神社が深い木立の中に鎮まっている。また民家園のある岡本公園の一角ではホタルを養殖しているが、これは崖線から湧き出る清冽な水が利用できるからだ。夏の夕辺にはホタルの飛びかう姿を見に多くの人が岡本公園を訪れる。
- 岡本静嘉堂文庫(岡本2-23-1):門を入るとイチョウや杉など木々の間を縫って、ゆるい坂道が続く。モダンな造りの静嘉堂には旧三菱財閥の岩崎弥之助、小弥太父子によって収集された和漢の典籍が保存され、時おり展示もされる。斜面に造られた庭園は武蔵野のたたずまいを残し、静嘉堂一帯は深い緑に包まれている。
- 多摩川灯ろう流し(二子玉川緑地運動場付近):お盆の灯ろう流しは夏の水辺の代表的な風物詩。多摩川の灯ろう流しは川筋をきれいにという市民運動から生まれた。夜の闇に流れていく灯ろうの明かりが郷愁をさそう[8]。
- 多摩川の緑と水:世田谷区の南の区境に沿って流れる多摩川は区内に残された最大の自然の景観といえる。水量こそ減ったが、周辺に残された緑また河川敷の広々とした空間は大変貴重なものだ。清流復活の願いも徐々に実り、野鳥や魚影を以前より多く観察することもできるようになった。
- 新二子橋からの眺め:多摩川を真中に左右に世田谷、川崎のまちの眺望がひらけ、さらに上流の光景も目に入ってくる。ふだん住みなれたまちなかでは感じられない、もう一つのまちの姿だ。このパノラマ風景を見ていると、河川や地形がまちの形成に深く関わっていることが納得できる。
- 兵庫島(玉川3丁目先):昔、新田義興が謀られて最期を遂げたとき、同じ船に乗っていた家臣、由良兵庫助の屍が流れついたところから、兵庫島といわれるようになった。この小島からずっと河川敷がつづき、野球場、サッカー場、テニスコート、ピクニック広場などのある二子玉川緑地運動場になっている。水辺に広がるスポーツ、レクリエーションゾーンとして多くの区民に利用されている。
- 多摩川沿いの松林(玉川1-1付近):黒松の林は多摩川の堤に伸びる代表的な風景だったが、今はもうこのあたりを残すのみとなった。川風に吹かれる松籟が風流人たちを川辺に誘い、川魚の料亭が軒を連ねていたという。現在も料亭が一軒残っており、松林とともに当時の面影をとどめる。
- 多摩川土手の桜(玉川1丁目~野毛3丁目玉堤通り沿い):東京で最も早く咲く桜として知られる。ありあまる春の光を全身に浴びるからだろうか。風に散る満開の桜が川辺に広がるタンポポのじゅうたんと一緒に多摩川堤ののどかな春の風景をかたちづくる。
- はなみずき並木の二子玉川界わい(玉川3丁目玉川通り周辺):まちのシンボルとなっている並木道。地元の熱意がつくりだした景観だ。桜の花の終わるころ、ハナミズキの赤い花が咲き始める。五月に花みず木フェスティバルも行われ、まちに初夏の到来を告げる。
- 瀬田の行善寺と行善寺坂(瀬田1-12-23付近):急勾配の行善寺坂を登りきったところに行善寺がある。昔、寺の境内からは多摩川の眺望が開け、行善寺八景とうたわれた。行善寺坂はもと大山道の一部だった道で、この街道は八十八坂七曲といわれるほど起伏の多い地形を通っていた。
- 環八アメリカ村(東名高速入口付近):アーリーアメリカンスタイルの白い建物のレストラン群や住宅展示場が立ち並んでいる一角。誰いうともなくアメリカ村と呼ばれている。車社会に忽然と出現した都市の新しい名所だ。週末には湘南海岸へ行く若いサーファーや家族連れで賑わう。[9]
- 玉川台自然観察の森(玉川台2-30):環八沿いのビルの裏手にこんもりと緑の盛り上がった森がある。ここは密生した植物とともに昆虫や小鳥が共生している自然空間となっている。過密な都市の中に生きているこうした自然のスペースを大切にしたいものだ。
- 用賀観音の無量寺(用賀4-20-1):境内に一際高く大イチョウが茂る。用賀観音と呼ばれるのは十一面観音像で、品川の浜で漁師の網にかかったのがここに祀られるようになったという。かつては観音講が組織され賑わったが、今は静かな境内だ。昼下がり近くの小学校のチャイムがのどかに響く。
- 馬事公苑界わい(上用賀2-1):東京オリンピックの馬術競技の会場になったことで有名。背の高いケヤキ並木をくぐって入る苑内は広大で、多くの樹木や草花が季節をいろどる。雑木林を散策するとかつての武蔵野の姿が思い浮かぶ。ケヤキ並木の道は広場として整備され、また一つ魅力を加えた。
- サマー世田谷ふるさと区民まつり(上用賀2-1(馬事公苑)):夏の緑を背に真っ赤なカンナの花が咲く8月初旬、馬事公苑を舞台に「ふるさと区民まつり」が開かれる。郷土芸能、ミニSL、おみこし、盆踊りや阿波踊りに馬の曲芸や試乗も加わり、大変な人気を呼ぶ。植木市や数えきれないほどの出店もたち並んで世田谷の一大夏の風物詩となった。
- 駒沢緑泉公園(駒沢3-19):人工芝と噴水と緑の公園、樹林園には落葉樹、常緑樹、潅木などが植えられた丘や川がつづく。素足の子ども達が小川の流れに入って遊び、幼い子は人工芝の上をのびのびとかけまわる。都市生活に欠かせないものとして公園空間はある。
- 駒沢オリンピック公園(駒沢公園):東京オリンピックの第二会場として整備され、オリンピック終了後は都の総合運動場となっている。緑に囲まれた公園で、中央広場には、五重塔を幾重にも重ねたような記念塔がそびえ、その周りに屋内体育館、陸上競技場がある。多くのスポーツ施設が整い、緑に包まれた休養地や児童遊園もある。家族そろって楽しめる憩いの場だ。
- 桜並木の呑川と緑道(深沢1丁目~8丁目):呑川の下水道化のために川の上をふさぎ緑道化したが、駒沢通りから上流はまだ川の流れが見える。川の流れに沿って桜並木があり、玉川通りまで続いている。遊歩道になった神明橋から下山橋にも桜並木が見られるが、これは川の土手の両側に植えられた桜がそのまま残ったもの。川の土手沿いの桜はかつて世田谷の春の風物詩だったが、今は区内各所で緑道沿いの桜と変わって世田谷に春の訪れを告げる。
- 谷沢川桜と柳の堤(用賀1丁目~中町5丁目):川沿いの桜が途切れると柳が続く。悲劇の伝説をもった「姫の滝」もあり、下流は等々力渓谷へと達する。地元の人たちのいき届いた手入れが光る。まちなかのコミュニティ景観だ。
- 上野毛五島美術館一帯(上野毛3-9-25付近):実業家として知られている故五島慶太氏が50年にわたり収集した古美術品が収蔵展示されている。美術館の建物は美しい和風建築で、崖線の斜面に広がる自然のままの庭園に野仏を配している。美術鑑賞のあとの散策に四季それぞれの趣を見つけることができる。
- 上野毛自然公園(上野毛2-17):崖線の斜面を利用した公園で、木々の間を縫うように階段が上へ伸びている。斜面をおおう深い緑は野趣に富んでおり、大地から多摩川沿いの低地にかけてできた崖の植物相を観察できる。階段を登りきると桜の林が広がっている。
- 玉川野毛町公園(野毛1-25):公園内に直径66メートル、高さ9メートルの野毛大塚古墳がある。小高い丘とも見えるこの円墳は現在都の史跡に指定されている。プール、野球場、テニスコート、遊び場などが設けられ、スポーツと憩いの場となっている公園だ。
- 野毛の善養寺と六所神社(野毛2-7-11(善養寺)、2-14-2(六所神社)):善養寺の境内には、都の天然記念物に指定されている高さ22.6メートル、幹回り5.25メートル、樹齢六百年を越えるカヤの巨木が株を広げている。雄株で一年おきに実を結び、実のたわわな枝を手にとれる。巨木そのものが風景になっているといってよい。六所神社では夏の大祭に、みこしを多摩川の中にかつぎ入れ、水神祭りを繰りひろげる。
- 等々力渓谷と等々力不動(等々力1-21-39):境内からは、児童公園などに植えられた二百本もの桜が見下ろせる。本堂横の石段を降りていくと、途中に小さな祠があり、役の行者が祭られている。石段の上には、不動の滝が落ちており、等々力の地名はこの滝の音の轟くところから起こったともいわれる。こんもりと木々の茂るこのあたりは等々力渓谷と呼ばれ、都内とは思えぬ自然の景観を持っている。
- 等々力の満願寺(等々力3-15-1):吉良氏によって創建された寺で、等々力不動はこの寺の別院である。境内の建物は新しいが、整った荘厳さを持っており、身がひきしまる。柳沢吉保に仕えた学者細井広沢の墓があり、国の史跡に指定されている。
- 等々力の玉川神社とその周辺(等々力3-27-7付近):吉良頼康の創建と伝えられ、玉川村の鎮守として付近の人々に親しまれてきた。境内には昭和初期に着手された耕地整理の記念碑とその功労者の碑が建てられている。玉川地区の現在のような整然とした道路と宅地ができあがったのは。この耕地整理事業による。昭和19年に整地工事は完成した。
- お面かぶりの九品仏と参道(奥沢7-41-3):九品仏浄真寺といわれるのは、阿弥陀仏如来像を三体ずつ三つのお堂に納めた三仏堂からきている。三年ごとの「お面かぶり」は都の郷土芸能に区内唯一指定されている。長い参道の向こうに見える茅造り総門、常盤伝説に由来するさぎ草園など見所が多い。奥沢城址に建てられた寺で寺域に土塁が残っている。
- 田園調布のいちょう並木(玉川田園調布一丁目):田園調布駅に至るイチョウ並木はがっしりとたくましく、繁雑なバスの往来をものともしない。戦前の田園調布開発に際して植えられたものが成長した並木だが、良好な住宅地を形成するには長期的な計画が欠かせないことの一つの証左になっている。
- 奥沢駅前の広場(奥沢3-47):目蒲線奥沢駅は区内で最も整備された駅前広場を持つ。緑と噴水は乗降客を慰めるばかりではなく、まちの人々の憩いの場ともなる。区内には多数の私鉄駅があるが駅前はその町の玄関、ゆとりを作る工夫がほしい。
せたがや百景選定委員会
- 委員長:桜井正信(駒沢大学教授(歴史地理))
- 副委員長:岩崎京子(作家(児童文学))
- 副委員長:下山照夫(区文化財保護指導員)
- 秋山元治(農業。区文化財調査員)
- 石黒武重(世田谷区町会総連合会最高顧問)
- 荻原玲子(子どもの遊びと町研究会事務局長)
- 木原敬吉(千葉大学教授(環境政策))
- 桑島俊彦(世田谷区商店連合会青年部長)
- 後藤伸行(切り絵作家)
- 坂本観晃(知行院副住職)
- 進士五十八(東京農業大学助教授(造園))
- 鈴木忠義(東京農業大学教授(風景計画))
- 筒井敬介(作家(劇作・児童文学))
- 東野芳明(美術評論家)
- 富田玲子(建築デザイナー)
- 永井うめ子(世田谷区婦人団体連絡協議会代表)
- 奈良孝男(元高等学校教諭)
- 福田繁雄(グラフィックデザイナー)
- 増村荘太郞(世田谷区助役)
- 矢吹申彦(イラストレーター)
- 山口長五郎(世田谷区町会総連合会副会長)
注記等
- ↑ 1.0 1.1 世田谷区『せたがや百景』発行・企画制作:世田谷区企画部都市デザイン室 発行日:平成3年(1991年)3月30日
- ↑ 選定から30年経った現在、すでに失われた風景も含まれている。
- ↑ 玉電は路面電車であった玉川電気鉄道の愛称である。玉川電鉄は道玄坂・三軒茶屋間で明治40年に開業し、その後渋谷・玉川間を結ぶ本線が開通している。現在の世田谷線は大正14年開業の支線(下高井戸線)となる。他にその前年開業の砧線もあった。戦前には大東急の一部となり、戦後は新玉川線が田園都市線・半蔵門線と結ばれることになり、昭和44年5月10日に本線は廃止された。その中で残った下高井戸線が世田谷線に改称されて存続したのである。したがって、世田谷線を指して「たまでん」と称するのは違和感が残る。
- ↑ 現在は朝市はない。毎月第3水曜日に「もってけ市」が開催されている。
- ↑ 下北沢驛前食品市場は2013年に大半が取り壊され、再開発の中で完全に消滅することになっている。
- ↑ 現在、下高井戸の阿波おどりは行われていない。
- ↑ 平成5年の創立60周年で園舎が新築落成しており、当時の山荘風建物は残っていない。
- ↑ 二子玉川を中心とした世田谷区内では現在、玉川灯ろう流しは行われていない。
- ↑ ファミリーレストラン(デニーズ、イエスタディ、プレストンウッド)や瀬田の住宅展示場の一帯が環八アメリカ村と呼ばれたようだが、イエスタディとプレストンウッドは早期に撤退、デニーズも2012年5月に閉店し、現在はその名残は残っていない。ちなみに、ユーミンこと松任谷由実が深夜のファミレスでネタを拾っていたと伝えられているが、このファミレスが瀬田の「イエスタディ」だったと言われている(デイリーポータルZ:ユーミン気分で作詞してみる by 住正徳)