世田ヶ谷の襤褸市

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幸徳秋水著『世田ヶ谷の襤褸市』全文の現代語訳ならびに原文[1]である。現代語訳は木田沢ダイタによる。

概要

この文章は、幸徳秋水が露天商の屑屋金太郎から聞き取った内容を、明治三十六年(1903年)12月『平民主義』に発表したものである。当時のボロ市の様子が数字で示されている貴重な資料である。

現代語訳

 歳の市とは、似顔絵の入った羽子板と新年のお飾りを売るところだ……とばかり思っている都のお坊ちゃん・お嬢ちゃんは、世田ヶ谷のボロ市に行って、辛い世間の仕組みの不思議な一面をうかがい見るがいい。

 毎年12月15日・16日の両日、まだ夜の深い午前三時頃から六時まで、荏原郡世田谷宿にボロ・くずものの市があり、一年で尤も賑わいを見せる。都の人が嫌がるような雑踏でも、自然の単調さに飽きた近郷在住の老若は、市の風に吹かれれば無病息災、百難を逃れることができるといって、三里~五里(12~15km)離れたところからもここに集まり、汚れていないボロ・くずものを買い取るのを無上の楽しみとしているのである。だから、この市の景気は、常に農家の購買力の高低を試験できるとされている。

 まず、宿の街道にむしろの席を数つらねて小屋掛けしている店々は、両側を合わせるとその長さは1200~1300間(2.2~2.4km)に及ぶだろう。品物はボロ6割に荒物3割。おでん、どぶろく、すし、駄菓子の飲食店、そのほか数種の見世物興業、賑やかな囃子の響き、肝っ玉の太い田舎者も肝を潰す。

 ぼろは、足袋、ももひき、シャツ、手袋、手ぬぐい、袷(あわせ)、単物、前掛け、じゅばん、羽織、はんてん、婦人の入浴時の腰巻き、ハンカチ、靴下、糸クズがあり、荒物はひしゃく、すずり箱、火鉢、茶盆、大小の桶やたらい、下駄、雪駄、ざる類、荒縄、子供の便器、古板、机、くわ、鎌、なた、斧、熊手、つるはし、すき、へら、やかん、鉄瓶、空き樽、空きビン、米、麦、粟、蕎麦、豆類など数え切れない。

 おかしいが、また憐れに感じるのは、これらの品物の中で穀類以外は一つとして満足なものはなく、破れた足袋の左が10文、右は9文というものがあったり、穴が開いた靴下の右は黒で左は白のものがあったりする。

 「うちには9文7分の足袋の右があるから、左を買いたい」とより分けている老婆もいれば、「コールテン鼻緒がついた左はあるが、右がないので、似たものをください」と古下駄を探す年増[2]もいる。特に目立つのは、青・赤・黄・白・黒模様が混じった糸クズで、しかも5寸(15cm)も続いていないものを、2貫~3貫をひとまとめにして12~13銭である。この屑の束を右に左と担ぎ廻る妙齢の婦人[3]が何百人もいる。どうするのかと聞けば、冬の夜長に糸をつなぎ合わせて織って布団にするのだという。また、一辺1寸(3cm)にも足りない布片のくず、包帯のようなきれいな細長の布片を、1.5貫目~2貫目とまとめて背負って帰る人も何千人もいるだろう。これはいずれも川向こうの稲毛の人々で、雪の日・雨の日の内職に、この布片をわらじやぞうりの爪先とかかとに作り込むのである。そうすると、全部わらのものよりも、お値段が一足につき5厘ずつ高くなるという。


 「雀、蛤となる」[4]という言葉もあるが、真逆に、これはどうかと思われる代物でも羽が生えて飛ぶように売れていく様子は、まさに世の中に用のないものはないということのようだ。一方では「クズえー、クズえー」と呼ぶ声も寒々しく、毎朝八百八町の路次に潜って、世の中を便利にして人々の暮らしを豊かにするための労働を行っている貧民もいれば、一方では貴重な授かり物を湯水のように浪費する遊民もいる。世間も様々である。

 さらに、市の余興を見ると、ひときわ目立つのは、小松の男女13人組の改良剣舞[5](見物料大人3銭子供2銭)で、売上63円70銭。次は鳥娘といって「親の因果が子に報い……」という見世物(大人2銭子供1銭)が売上15円32銭。次はカッパの見せ物(大人子供とも1銭)が総売上5円80銭。次は満作踊(大人3銭子供2銭)でわずかに3円60銭。続いて松井源水と永井兵助の居合抜きがいずれも2円50銭~3円の売上という。

 そのほか、おもちゃ、辻占、流行歌、絵草子、暦売などがある。

 商人の中で最も利益があったのはどぶろく店で、中には1軒で5斗を売り尽くしたものが2軒ある。2斗以上3斗までの店も15~16軒ある。これにともなうおでん、煮しめ、煮魚など7~8円から12円までの純益があったという。

 初日の露店の数は730余り。翌日は午後二時頃まで雨が降ったので150前後に減った。しかし、例年に比べればはるかに上景気である。一般での商い高は、昨年は2200~2300円にすぎなかったが、本年は3400~3500円に上ったという。東京市中の歳の市は2~3割から3~4割の不景気なのに、ボロ市がこのように繁盛したのは、秋の収穫がよかったため、多少農家の購買力が高まったからだろう。これらの露店商人が初日使ったむしろ席数は1870枚以上だった。1枚1日の使用量は1銭5厘だが、競争の結果、後には3銭までせり上がった。一人で最も多く使用したのは荒物店で、7~8枚用いたものもいる。また、彼らの店借賃はむしろ席1枚につき12銭と決まっているが、棚分けまたは部分と称して、頭数で15銭を取られたものもいる。この棚税はボロ市事務所に納めた上で、一部は世田ヶ谷の教育・衛生・道路などの公共費に、一部は市場の基本財産とするのである。露店使用の商人が、いずれも東京市内のくず屋・荒物屋であることは言うまでもない。

 世田ヶ谷の宿屋は、木賃宿が一軒、旅籠が二軒だけで、市が開かれたときは多くの商人がここに詰め込み、膝と膝、背と背を突き合わせ、窮屈を忍んで一夜を明かす。このときだけは木賃も旅籠も、同じく朝と晩との2食1泊で25銭から30銭。朝も晩も献立は違うものの煮しめと味噌汁だけであって、さかなの匂いを薬味にしたくてもない。これであっても雨露はしのげるし、腹は膨れる。金が手に入りにくいことを思えば……。

 ああ、ボロ市は羽子板のように美しいものでもなく、お飾りのように上品なものでもないが、世知辛い世間の仕組みを我々の前に示しており、どれほど多くの教訓を与えてくれることか。

注釈

  1. 田中貢太郎編『明治大正随筆選集19土佐五人随筆集』人文会出版部(国会図書館デジタルライブラリー)を底本とした。
  2. 年増は二十歳過ぎの女性を指す。
  3. 妙齢の婦人は二十歳前の女性を指す。三十代前後を指すのは現代の誤用である。
  4. 「雀蛤となる」は晩秋の季語。「雀海中に入って蛤となる」がもとの成語で、寒い時期、スズメが浜辺で群れて里に少なくなることから、スズメが海でハマグリになっているからだ、という迷信があった。ここから、ものごとの大きな変化を表す言葉となった
  5. 改良剣舞は剣舞に演劇的要素を加えたもの。

原文

 年の市とは、似顔の羽子板とお飾とを売る処也。とのみ思へる都の坊様お嬢様は、去って世田ヶ谷の襤褸市に、辛き浮世の機関の不思議なる半面を窺ひ見よ。

 毎年十二月十五、十六の両日、未だ夜深き午前三時頃より六時まで、荏原郡は世田谷宿に、襤褸屑物の市ありて、一年中の賑ひを極む。都人は嫌がる雑踏を、自然の単調に厭ける近郷在住の老若は、市の風に吹かるれば無病息災百難を遁るるとて、三里五里の道を此処に集り、穢なき襤褸屑物を買取るを無常の楽みとはなす也。されば、此の市の景気は、常に農家の購買力の高低を試験し得べしとぞ。

 先づ、宿の街道に莚席数列ねて小屋掛けせる店店、両側を合して其の長さ千二三百間に亘るべし。品物は襤褸六分に荒物三分、おでん、濁酒、鮓、駄菓子の飲食店、其外、数種の見せ物興行耳を聾する囃子の響き、田舎者の荒肝を挫ぐ。

 襤褸は足袋、又引、シャツ、手袋、手拭、袷、単物、前掛け、襦袢、羽織、袢纏、婦人の湯巻、手巾、靴下、絲屑にて、荒物は柄杓、硯箱、火鉢、茶盆、大小の桶や盥、、下駄、雪駄、笊類、荒縄、小児の便器、古板、机、鍬、鎌、鉈、斧、熊手、鶴嘴、鋤、篦、薬罐、鉄瓶、空樽、空壜、米、麦、粟、蕎麦、豆類など数へも尽せず。

 可笑しくも又憐れに感ずるは、此等の品物、穀類を除くの外は一として満足なるはなく、破れたる足袋の左は十文、右は九文なるがあれば、穴あける靴下の右は黒にて左は白也。

 宅には九文七分の足袋の右があるから左を買ひたしと選り分けて居る老媼あれば、コールテン鼻緒表付の左はあれど、右がなければ、似たものを下さいと古下駄を探す年増あり、殊に目立てるは青赤黄白黒模様の混合せる絲屑の、而も五寸と続けるはなきを、二貫乃至三貫目一把にして十二三銭也。此屑の束把を右に左と担ぎ廻る妙齢の婦人幾百人なるを知らず。如何にするにやと聞けば冬の夜長に幵を繋ぎ合せて蒲団に織るなりとぞ、又方一寸にも足らぬ布片の屑、繃帯の様なる穢なき細長の布片を、一貫五百目、二貫目と纏めて負ひ返る者も幾千人もありけん、是は孰れも河向ひの稲毛の人人にて、雪の日雨の夜の内職に、此の布片を草鞋や草履の爪先と踵に作り込む也。全部藁の物よりも、御直段一足に付五厘づつ高しと也。

 雀、蛤となる例もあれ、真逆に是はと思はるる代物の羽が生て飛ぶ如くに売行く有様、実に世に用なき物とては無きぞかし。一面には屑ヱ屑ヱの声寒く、毎朝八百八町の路次路次を潜りて、利用厚生の労働を供する細民あれば、一面には貴重の天物を湯水と暴殄する遊民あり、様様の浮世哉。

 更に市の余興を見れば、一際目立ちしは、小松の男女十三人組の改良剣舞(木戸大人三銭小児二銭)にて、上り高六十三円七十銭、次は鳥娘とて、親の因果の見せ物、(大人二銭、小児一銭)上り高十五円三十二銭、次はカッパの見せ物木戸大小一銭、上り高五円八十銭、次は満作踊(大三銭、小二銭)にて僅かに三円六十銭、続て松井源水と、永井兵助の居合抜き、孰れも二円五十銭より三円までの上り高也しと。

 其外、玩具、辻占、流行歌、絵草子、扨は暦売等。

 商人の中にて、尤も利益ありしは濁酒店にて、中には一戸にて五斗を売り尽せしもの二戸あり、二斗以上三斗までの者十五六戸もあり。之に伴ふおでん、煮締、煮肴など七八円より、十二円までの純益ありしといへり。

 初日の露店の数は七百三十余、翌日は午後二時頃まで雨降りたれば、百五十内外に減じぬ。左れど、例年に比して遥かに上景気なりき。一般の商ひ高は、昨年は二千二三百円に過ぎざりしに、本年は三千四五百円に上れりとぞ。東京市中の年の市は、二三割より三四割の不景気なるに、襤褸市の斯く繁盛せるは、秋の収穫の良かりし為、多少農家の購買力を高めたればなるべし。是等の露店商人が、初日は使用せる莚席数は、千八百七十余枚にて、一枚一日の使用料は一銭五厘なれど、競争の結果、後には三銭まで糶上げたり。一人にて最も多く使用せるは荒物店にて、七枚より八枚を用ゐし者あり、又彼らが店借賃は、莚席一枚につき十二銭と定まれるも,棚分け又は部分と称する者、頭を張りて十五銭づつ取られしもあり、此棚税は襤褸市事務所に納めし上、一部は世田ヶ谷の教育衛生道路等の公共費に、一部は市場の基本財産とはなす也。露店使用の商人は、孰れも東京市内の屑屋、荒物屋なるは云ふ迄もなし。

 世田ヶ谷の宿屋は、木賃宿一戸、旅籠二戸のみにて、市の開けし時は多くの商人此処に詰込み、膝と膝、背と背を突合わせ、窮屈を忍びて一夜を明す。

 此時のみ木賃も、旅籠も、同じく朝と晩との二食一泊にて廿五銭より三十銭、朝も晩も献立は違へど煮締と味噌汁のみにて、魚の臭ひは薬にしたくともなし。

 斯くても雨露は凌がるる也。腹は膨るる也。金の得難きことを思へば、

 嗚呼襤褸市、羽子板の如く美しからず、お飾りの如く上品ならねど、世知辛き浮世の機関を吾等の前に開展して、如何に多くの教訓を与ふるよ。