ダイダラ坊の足跡

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ダイダラ坊の足跡は、柳田国男による論考で、昭和二年(1927年)4月『中央公論』に掲載されたのが初出である。「代田」の地名がダイダラボッチに由来するという説の根拠として言及される重要な論考である。ただし、代田地名がダイダラボッチ由来であるというのは柳田国男の推測(柳田説)であって、必ずしも確定した事実というわけではないことには留意しなければならない。注釈にも示したとおり、引用を忠実に行っているが、引用元の誤りをそのまま継承しているものも多いので注意が必要である。

著作権保護期間満了のため、全文をここに掲載する。[1]

ダイダラ坊の足跡

巨人来往の衝

 東京市はわが日本の巨人伝説の一箇の中心地ということができる。われわれの前住者は、大昔かつてこの都の青空を、南北東西にーまたぎにまたいで、歩み去った巨人のあることを想像していたのである。しこうして何人なんぴとが記憶していたのかは知らぬが、その巨人の名はダイダラ坊であった。

 二百五十年前の著書『紫の一本』によれば、甲州街道は四谷新町のさき、笹塚の手前にダイタ橋がある[2]大多だいだぼっちが架けたる橋のよし言い伝う云々とある。すなわち現在の京王電車線代田橋の停留所と正に一致するのだが、あのあたりには後世の玉川上水以上に、大きな川はないのだから、巨人の偉績としてははなはだ振るわぬものである。しかし村の名の代田だいたは偶然でないと思う上に、現に大きな足跡が残っているのだから争われぬ。

 私はとうていその旧跡に対して冷淡であり得なかった。七年前に役人をやめて気楽になったとき、さっそく日をトしてこれを尋ねてみたのである。ダイタの橋から東南へ五、六町(約五四五、六五四メートル)、そのころはまだ畠中であった道路の左手に接して、長さ約百間(約一八〇メートル)もあるかと思う右片足の跡が一つ、爪先あがりに土深く踏みつけてある、と言ってもよいような窪地があった。内側は竹と杉若木の混植で水が流れると見えて中央が薬研やげんになっており[3]きびすのところまで下るとわずかな平地に、小さな堂が建ってその傍にわき水の池があった。すなわちもう人は忘れたかも知れぬが、村の名のダイタは確かにこの足跡に基づいたものである。

 あのころ発行せられた武蔵野会の雑誌には、さらにこの隣村の駒沢村の中に、今二つのダイダラ坊の足跡があることを書いてあった。それを読んでいた自分はこの日さらに地図をたどりつつ、そちらに向かって巡礼を続けたのである。足跡の一つは玉川電車から一町(約一〇九メートル)ほど東の、たしか小学校と村社との中ほどにあった[4]。これも道路のすぐ左に接して、ほぼ同じくらいのくぼみであったが、草生の斜面を畠などに飛いて、もう足形を見ることは困難であった。しかしきびすのあたりに清水が出ており、その末は小流をなして一町歩ばかりの水田にそそがれている。それから第三のものはもう小字こあざの名も道も忘れたが、何でもこれから東南へなお七、八町(約七六〇、八七〇メートル)も隔てた雑木林のあいだであった[5]。付近にいわゆる文化住宅が建とうとして、盛んに土工をしていたから、あるいはすでに湮滅いんめつしたかも知れぬ。これは周囲の林地よりわずか低い沼地であって、自分が見た時にもはや足跡に似た点はちっともなく、住民は新地主で、尋ねても言い伝えを知らなかった。そうして物ずきないわゆる史蹟保存も、さすがに手をつけてはいなかったようである。

 代田と駒沢とは足の向いた方が一致せず、おまけにみな東京を後にしているが、これによって巨人の通った路筋を考えてみることはできぬ。地下水の露頭のために土を流した場所が、通例こういう足形窪を作るものならば、武蔵野は水源が西北にあるゆえに、ダイダラ坊はいつでも海の方または大川の方から、奥地に向いて澗歩かっぽしたことになるわけである。江戸には諸国よりいろいろの人が来て住んで、近世初めて開けた原野が多かろうと思うのに、いつの間に所々の郊外に、こうして大昔の物語を伝えたものか。自分たちはこれを単なる不思議と驚いてしまわずに、今すこししんみりと考えてみたいと思っている。

 ただ不幸なことには多くの農民の伝説が、江戸の筆豆にも採録せられぬうちに消えてし まった。百年あまり前のことである。小石川小日向台こびなただいの本法寺という門徒寺もんとでらの隠居に、十方菴敬順という煎茶せんちゃのすきな老僧があった。たたみ焜炉こんろという物を茶道具といっしょに携帯して、日返りに田舎へ出かけて、方々の林の陰に行って茶を飲み、野らに働く人たちをとらえて話を聞いた。『遊歴雑記』と題するこの坊さんの見聞録が、『江戸叢書』の一部として出版せられている。それを捜してみるとほんの一つだけ、王子の豊島の渡しの少し手前の畑の中に、ダイダボッチの塚というものがあったことを記してある。ここでも土地の字は代田といい、巨人がこの辺を歩いた時、その草鞠にくっついていた砂が落ちこぼれて、この塚になったと村の人たちが彼に話したとある[6]。その塚は今どこにあり、そのロ碑をかたった農夫の家は、どうなってしまったかも尋ねようはないが、とにかくにきまじめにこんな昔話を聞いたり語ったりした者が、つい近年まではこの地にさえいたのである。

デェラ坊の山作り

松屋筆記まつのやひっき[7]にはまたこんな話を書いている。著者は前の煎茶僧とほぼ同じ時代の人である。いわく、武相の国人常にダイラボッチとして、形大なる鬼神がいたことを話する。相模野の中にある大沼という沼は、大昔ダイラボッチが富士の山を背負って行こうとして、足を踏張った時の足跡のくぼみである。またこの原に藤というものの少しもないのは、彼が背縄にするつもりで藤蔓ふじづるを捜し求めても得られなかった因縁をもって、今でも成長せぬのだと伝えている云々[8]。自分は以前何回もあの地方に散歩してこのことを思い出し、果して村の人たちが今ではもう忘れているか否かを、確かめてみたい希望を持っていたが、それを同情して八王子の中村成文君が、特にわれわれのために調べてくれられた結果を見ると、なかなかどうして忘れてしまうどころではなかった。[9]

 右の大沼とは同じでないかも知れぬが、今の横浜線の淵野辺ふちのべ停車場から見えるところに、一つの窪地があって水ある時にはこれを鹿沼といっている[10]。それから東へ寄ってこれも鉄道のすぐ傍に菖蒲沼しょうぶぬまがあり[11]、二つの沼の距離は約四町(約四三六メートル)である。デエラボッチは富士山を背負おうとして、藤蔓を求めて相模野の原じゅうを捜したが、どうしてもないので残念でたまらず、じんだら﹅﹅﹅﹅(地団太)を踏んだ足跡が、この二つの沼だという。またこの原の中ほどには幅一町(約一〇九メートル)ばかり、南北に長く通った窪地がある。デエラボッチが犢鼻褌ふんどしを引きずってあるいた跡と称し、現にその地名をふんどし﹅﹅﹅﹅窪ととなえている[12]。境川を北に渡って武蔵の南多摩郡にも、これと相呼応する伝説はいくらもある。たとえば由井村の小比企こびきという部落から、大字宇津貫うつぬきへ越える坂路に、池のくぼと呼ばるる凹地がある[13]。長さは十五、六間(約二七、一一九メートル)に幅十間(約一八メートル)ほど、梅雨の時だけは水がたまって池になる。これもデエラボッチが富士の山を背負わんとして、一またぎに踏んばった片足の痕で、今一方は駿河の国にあるそうだ。なるほど足跡だといえばそうも見えぬことはない。また同郡川口村の山入という部落では、縄切と書いてナギレとあざに、付近の山から独立した小山が一つある[14]。これはデエラボッチが背に負うてやってきたところ、縄が切れてここへ落ちた。その縄を繋ぐために藤蔓を探したが見えぬので、大いにくやしがって今からこの山にふじは生えるなといったそうで、今日でも山はこの地に残り、ふじは成長せぬと伝えている。ただしそのふじ﹅﹅というのはくずのことであった。巨人なればこそそのような弱い物で、山でもかついで持ち運ぶことができたのである。

 甲州の方ではレイラボッチなる大力の坊主、麻殻おがらの棒で二つの山をにない、遠くへ運ぼうとしてその棒が折れたという話が、『日本伝説集』にも『甲斐の落葉』[15]にも見えている。東山梨郡加納岩村の石森組には、そのために決して麻はうえなかった。植えると必ず何か悪いことがあった。その時落ちたという二つの山が、一つは塩山であり他の一つは石森の山であった[16]。ある知人の話では、わらの茎で二つの土塊を荷なっていくうちに、一つは抜け落ちて塩山ができたといい、その男の名をデイラボウと伝えていた。デイラボウはそのまま信州の方へ行ってしまったということで、諸所に足跡がありまたいくつかの腰掛石もあった。

 われわれの祖先はいつの世からともなく、孤山の峰の秀麗なるものを拝んでいた。飯盛山いいもりやまというのが、その最も普遍した名称であった。御山御岳として特に礼拝する山だけは、この通り起源が尋常でないもののごとく、説明せられていたように思われる。後にはもちろんこれを信ずるあたわざる者が、いわゆる大話の着想の奇に興じたことは確かだが、最初に重きをおいたのは麻殻葛の蔓の点ではなかったろうかと思う。むつかしくいうならばこの種巨人譚の比較から、どのくらいまで精密に根源の信仰がたどっていかれるか。それをきわめてみたいのがこの篇の目的である。必ずしも見かけほどのんきな問題ではないのである。

関東のダイダ坊

 自分たちはまず第一に、伝説の旧話を保存する力というものを考える。足跡がある以上は本当の話だろうということは、論理の誤りでもあろうし、また最初からの観察法ではなかったろうが、とにかくにこんなおかしな名称と足跡とがなかったならば、いかに誠実に古人の信じていた物語でも、そう永くはわれわれのあいだに、留まっていなかったはずである。東京より東の低地の国々においては、山作りの話はようやくまれにして、足跡の数はいよいよ多い。すなわち神話は遠い世の夢と消えて後に、人は故郷の伝説の巨人を引き連れて、新たにこの方面に移住した結果とも、想像せられぬことはないのである。けだし形状の少しく足跡に似た窪地をさして、深い意味もなくダイラボッチと名づけたような場合も、ある時代には相応に多かったと見なければ、説明のつかぬほどの分布があることは事実だが、大本にさかのぼって、もしも巨人は足痕をのこすものなりという教育がなかったら、とうていこれまでの一致を期することはできぬかと思う。

 上総かずさ下総しもうさは地名なり噂話なりで、ダイダの足跡のことにあまねき地方と想像しているが、自分が行ってみたのは一か所二足分に過ぎなかった。旅はよくしてもなかなかそんなところへは出くわせるものでない。上総では茂原もばらから南へ丘陵を一つ隔てて、鶴枝川が西東に流れている。その右岸の立木という部落を少し登った傾斜面の上の方に、いたって謙遜なるダイダッポの足跡が一つ残っていた[17]足袋底たびぞこの型程度の類似はもっているが、この辺が土ふまずだと言われてみても、なるほどとまでは答えにくい足跡であった。面積はわずかに一畝と何歩、周囲は雑木の生えた原野なるに反して、この部分のみは麦畠になっていた。爪先はここでも高みの方を向いている。土地の発音ではライラッポとも聞こえる。川の両岸の岡から岡へ一またぎにしたというのであるが、向かいの上永吉の方では、松のある尾崎が近年大いに崩れて、もう足跡だと説明することができなくなっている。ただその少しの地面のみが別の地主に属し、左右の隣地を他の一人で持っている事実が、たぶん以前は除地よけちであったろうことを、想像せしめるというだけである。

埴生はにゅう郡聞見漫録』を見ると、この地方の海岸人がダンダアというのは、坊主ざめとも称する一種の怪魚であった。それが出現すると必ず天気が変わると伝えられた。あるいは関係はないのかも知れぬが、ことによるとダイダ坊も海からくると想像したのではあるまいか。常陸ひたちの方では『風俗画報』に出た「茨城方言」に、ダイダラボー、昔千波沼せんばぬま辺に住める巨人なりという。土人いうこの人大昔千波沼より東前池とうまえいけまで、一里あまりの間をーまたぎにし、その足跡が池となったと言い伝うる仮想の者だとある。その足跡の話は吉田氏の『地名辞書』にも見え、あるいは椎塚村のダッタイ坊などのごとく、そちこち徘徊はいかいした形跡はもちろんあるが、それを「古風土記」の大櫛岡おおくしかの物語が、そのまま残っていたものと解することは、常陸の学者には都合がよろしくとも、他の方面の伝説の始末がつかなくなる。自分はそういう風に地方地方で、独立して千年以上を持ち伝えたようには考えていないのである。

 下野しもつけではまた鬼怒川きぬがわの岸に立つ羽黒山が、昔デンデンボメという巨人の落としていった山ということになっている。この山にかぎって今なお一筋の藤蔓もないのは、山を背負って来た時に藤の縄が切れたためだというのは、少々ばかり推論の綱が切れている。あるいはこの山に腰をかけて、鬼怒川で足を洗ったといい、近くにその時の足跡と伝うる二反歩たんぶばかりの沼が二つあり、土地の名も葦沼あしぬまと呼ばれている[18]。足のすぐれて大きな人を、今でもデンデンボメのようだといって笑うというのも(『日本の伝説』)、信州などの例と一致している。

 枝葉にわたるが足を洗うという昔話にも、何か信仰上の原因があったのではないかと思う。私の生まれた播州の田舎でも、川の対岸の山崎というところに、淵に臨んだ岩山があって、夜分その下を通った者の恐ろしい経験談が多く流布していた。路をまたいで偉大なる毛ずねが、山の上から川の中へぬっと突込まれたのを見たなどといって、その土地の名を千束と称するが、センゾクはたぶん洗足であろうと思っている。江戸で本所の七不思議の一つに、足洗いという怪物を説くことは人がよく知っている。深夜に天井から足だけが一本ずつ下がる。これを主人がかみしもたらいを採って出て、うやうやしく洗いたてまつるのだというなどは、空想としても必ず基礎がある。洗わなければならなかった足は、遠い路を歩んできた者の足であった。すなわち山を作った旅の大神と、関係がなかったとはいわれぬのである。

百合若と八束脛

 上野こうずけ国では三座の霊山が、初期の開拓者を威圧した力は、かえって富士以上のものがあったかと想像せられる。すなわちその峰ごとに最も素朴なる巨人譚を、語り伝えたゆえんであろう。たとえば多野郡の木部の赤沼は、伊香保の沼の主に嫁いだという上臘じょうろうの故郷で、わが民族のあいだにことに美しく発達した二所の水の神の交通を伝うる説話の、注意すべき一例を留めている沼であるが、これもダイラボッチが赤城山に腰をかけて、うんと踏張った足形の水たまりだというロ碑がある。榛名はるなの方ではまた榛名富士が、駿河の富士よりも一もっこだけ低い理由として、その傍なる一孤峰を一畚ひともっこ山と名づけている。あるいはそれを榛名山の一名なりともいい、今一畚たらぬうちに、夜が明けたので山作りを中止したとも伝える。その土を取った跡が、あの閑かな伊香保の湖水であり、富士は甲州の土を取って作ったから、それで山梨県は擂鉢すりばちの形だと、余計な他所のことまでこのついでをもって語っている。この山の作者の名は単に大男と呼ばれている。榛名の大男はかつて赤城山に腰をかけて、利根川の水で足を洗った。そのおりにすねについていた砂を落としたのが、今のすね神の社の丘であるともいう。

 それから妙義山の方では山上の石の窓を、大太だいだという無双の強力ごうりきがあって、足をもって開いたという話がある。中仙道の路上からこの穴のよく見える半年石はんねいしというところに、路傍の石の上に大なる足跡のあるのは、その時の記念なりと伝えられた。『緘石録かんせきろく』という書には、大太は南朝の忠臣なり、出家してその名を大太法師、またの名を妙義と称すとあるが、いかなる行き違いからであろうか、貝原益軒の『岐蘇道記きそじき』を始めとし、この地をすぐる旅人は、多くはこれを百合若ゆりわか大臣の足跡と教えられ、あの石門は同人が手ならした鉄の弓をもって、射抜いた穴だという説の方が有力であった。百合若は『舞の本』によれば、玄海の島に年を送り、とても関東の諸国までは旅行をする時をもたなかったように見えるが、各地にその遺跡があるのみか、その寵愛の鷹の緑丸までが、奥羽の果てでも塚を築いて弔われている。いかなる順序をへてそういうことになったかは、ここで簡単に説きつくすことは不可能だが、つまりは村々の昔話において、相応に人望のある英雄ならば、思いの外無造作にダイダラ坊の地位を、代わって占領することを得たらしいのである。

 自分のこれからの話は大部分がその証拠であって、特に実例をあげるまでもないのだが、周防すおうの大島のいかりヶ峠の近傍には、現在は武蔵坊弁慶の足跡だと称するものが残っている。昔笠佐の島が流れようとした時に、弁慶ここに立って踏張ってこれを止めたというのである。紀州の日高郡の湯川の亀山と和田村の入山にゅうやまとは、同じく弁慶がもっこに入れてにのうてきたのだが、鹿瀬峠でおうごが折れて、落ちてこの土地に残ったといい、大和の畝傍うねび山と耳成みみなし山、一説には畝傍山と天神山とも、やはり『万葉集』以後に武蔵坊むさしぼうがかついできたという話がある。朸がヤーギと折れたところが八木の町、いまいましいと棒を捨てたところが、今の今井の町だなどとも伝えられる。そんなことをしたとあっては、弁慶は人間でなくなり、したがってこの世にいなかったことになるのである。実に同人のためにはありがた迷惑な同情であった。

 それはともかくとして信州の側へ越えてみると、また盛んにダイダラ坊が活躍している。戸隠とがくし参詣の道では飯綱いいづな山の荷負におい池が、『中陵漫録ちゅうりょうまんろく』にも出ていてすでに有名であった[19]。これ以外にも高井郡都野の奥山に一つ、木島山の奥に一つ、露織郡猿ケ番場の峠にも一つ、大楽法師の足跡池があると、『信濃佐々礼石さざれいし』には記している。少し南へ下れば小県ちいさがた郡の青木村と、東筑摩郡の坂井村との境の山にも、その間二十余丁を隔って二つの大陀だいだ法師の足跡があり、いずれも山頂であるのに夏も水気が絶えず、莎草さそう科の植物が茂っている。昔巨人は一またぎにこの山脈を越えて、千曲川の盆地へ入ってきた。そのおり両手にさげて来たのが男岳・女岳の二つの山で、それゆえに二峰は孤立して間が切れているという。

 東部日本の山中にはこの類の窪地が多い。それを鬼の田または神の田と名づけて、あるいはかず稲のロ碑を伝え、またあるいは稲に似た草の成長をみて、村の農作の豊凶を占う習いがあった。それが足ノ田・足ノ窪の地名をもつことも、信州ばかりの特色ではないが、松本市の周囲の丘陵にはその例がことに多く、たいていはまたデエラボッチャの足跡と説明せられているのである。その話もしてみたいが長くなるからがまんをする。ただ一言だけ注意を引いておくのは、ここでも武相の野と同じように、相変わらず山を背負うて、その縄が切れていることである。足跡の湿地にははなはだしい大小があるにかかわらず、落し物をして去ったという点はほとんど同一人らしい粗忽そこつである。小倉の室山に近い背負山は、デエラボッチャの背負子しょいこの土よりなるといい、市の東南の中山は履物はきものの土のこぼれ、やまと村の火打岩は彼の燧石ひうちいしであったというがごとき、いずれも一箇の説話の伝説化が、到るところに行なわれたことを示すのである。

 ただし物草太郎の出たという新村の一例のみは、あるいはダイダラ坊ではなく三宮明神の御足跡だという説があったそうだ。今日の眼からは容易ならぬ話の相異ともみえるが、そういう変化はすでにいくらでも例がある。上諏訪の小学校と隣する手長てなが神社なども、祭神は手長足長という諏訪明神のご家来と伝うる者もあれば、またデイラボッチだという人もあって、旧神領内には数か所の水溜りの、二者のどちらとも知れぬ大男の足跡からできたという窪地が今でもある。手長は中世までの日本語では、単に給仕人また従者を意味し、実際は必ずしも手の長い人たることを要しなかったが、いわゆる荒海の障子の長臂ながひじ国、長脚国の蛮民の話でも伝わったものか、そういう怪物が海に迫った山の上にいて、あるいは手を伸ばして海中のはまぐりを捕って食い、あるいは往来の旅人を悩まして、後に神明仏陀の御力に済度さいどせられたという類の言い伝えが、方々の田舎に保存せられている。名称の起こりはどうあろうとも、畢竟ひっきょうは人間以上の偉大なる事業をなしとげた者は、必ずまた非凡なる体格を持っていたろうというきわめてあどけない推理法が、一番の根源であったことはほぼ確かである。それが次々にさらにかしこき神々の出現によって、征服せられ統御せられて、ついに今日のごとく零落するに至ったので、ダイダばかりか見越し入道でも轆轤首ろくろくびでも、かつて一度はそれぞれの黄金時代を、もっていたものとも想像し得られるのである。

 ゆえに作者という職業の今日のごとく完成する以前には、コントには必ず過程があり、種子萌芽があった。そうしてダイダラ坊は単に幾度か名を改め、その衣服を脱ぎ替えるだけが、許されたる空想の自由であった。たとえば上州人の気魄きはくの一面を代表する八掬脛やつかはぎという豪傑のごときも、なるほど名前から判ずれば土蜘蛛つちぐもの亜流であり、また長髄彦ながすねひこ手長足長てながあしながの系統に属するように見えるが、その最後に八幡神の統制に帰服して、永く一社の祀りを受けているという点においては、依然として西部各地の大人おおひと弥五郎の形式を存するのである。しかもかつては一夜の中に榛名富士を作り上げたとまで歌われた巨人が、わずかに貞任さだとう宗任むねとうの一族安倍三太郎某の、そのまた残党だなどと伝説せられ、縄梯子なわばしごを切られて巌窟の中で餓死をしたというような、花やかならぬ最後を物語られたのも、実はまた無用な改名にわずらわされたものであった。八掬脛やつかはぎはそうたいした名前ではない。一掬を四寸(約ーニセンチ)としてもせいぜい三尺(約九〇センチ)あまりのすねである。だから近世になるといろいろな講釈を加えて、少しでもその非凡の度を恢復しようとした跡がある。たとえばこの国の領主小幡宗勝おばた むねかつ、毎日羊に乗って京都へ参覲さんきんするに、うまの刻に家をたってさるの刻には到着する。よって羊太夫ひつじだゆうの名を賜わり、多胡たごの碑銘に名を留めている。八束小脛やつかこはぎはその家来であって、日々羊太夫の供をして道を行くこと飛ぶがごとくであったのを、ある時昼寝をしているわきの下を見ると、鳥のつばさのごときものが生えていた。それをむしり取ってから随行ができず、羊太夫も参覲を怠るようになって、後には讒言ざんげんが入って主従ながら誅罰ちゅうばつせられたなどと語り伝えて、いよいよわがダイダラボッチを小さくしてしまったのである。

一夜富士の物語

 話が長くなるから東海道だけは急いで通ろう。この方面でも地名などから、自分が見当をつけている場所はだんだんあるが、実はまだ見に行くおりを得ないのである。遠州の袋井在では高尾の狐塚の西の田圃に、大ダラ法師と称する涌水の池があるのを、山中共古きょうこ翁は行ってみたといわれる。見付の近くでは磐田原の赤松男爵の開墾地の中にも、雨が降れば水のたまる凹地があって、それは大ダラ法師の小便壷といっていたそうである。尾張の呼続よびつぎ町の内には大道法師の塚というものがあることを、『張州府志』以後の地誌にみな書いている。『日本霊異記』の道場法師は、同じ愛知郡の出身であるゆえに、かれとこれと一人の法師であろうという説は、主としてこの地方の学者が声高く唱えたようであるが、それも弁慶・百合若同様の速断であって、とうてい一致のできぬ途法もない距離のあることを、考えてみなかった結果である。

 たとえば丹羽郡小富士においては、やはり一の功を欠いた昔話があり、木曾川を渡って美濃に入れば、いよいよそのような考証を無視するにたる伝説が、もういくらでも村々に分布しているのである。通例その巨人の名をダダ星様と呼んでいるということは、前年『民俗』という雑誌に維塀治右衛門氏が書かれたことがある。この国旧石津郡の大清水、かぶと村とかの近くにも大平だいだら法師の足跡というものがあると、『美濃古蹟考』から多くの人が引用している。里人の戯談にこの法師、近江の湖水をーまたぎにしたというとあることは有名な話である。

『奇談一笑』という書物には何によったか知らぬが、その近江の昔話の一つの形かと思うものを載せている。古大々法師だだぼうしという者あり。善積よしずみ郡の地をあげてことごとく掘りて一簣となし、東に行くこと三歩半にしてこれを傾く。その掘るところはすなわち今の湖水、その委土すてつちは今の不二山なりと。しこうして江州にあるところの三上・鏡・岩倉・野寺などの諸山は、いずれももっこの目より漏り下るものというとある。孝霊天皇の御治世に、一夜に大湖の土が飛んで、駿河の名山を現出したということは、ずいぶん古くから文人の筆にするところであったが、それが単に噴火の記事を伝えたのなら、おそらくこのようには書かなかったであろう。すなわち神聖なる作者の名を逸したのみで、神が山を作るということは当時いたって普通なる信仰であったゆえに、詳しい年代記として当然にこれを録したというに過ぎなかった。『日本紀略』には天武天皇の十三年十月十四日、東の方に鼓を鳴らすがごとき音が聞こえた。人ありていう、伊豆国西北の二面、自然に増益すること三百余丈、さらに一島をなす。すなわち鼓の音のごときは神この島を造りたまう響きなりと。伊豆の西北には島などはなく、大和の都まで音が聞こえるはずもないのに、正史にもれて数百年にしてこのことが記録に現れた。しかも日本の天然地理には、こう感じてもよい実際の変化は多かった。すなわち山作りの神の、永く足跡を世に遺すべき理由はあったのである。

 琵琶湖の付近において、この信仰が久しく活きていたらしいことは、白髭しらひげ明神の縁起などがこれを想像せしめる。木内石亭は膳所ぜぜの人で、石を研究した篤学の徒であったが、その著『雲根志』の中に次のごとく記している。甲賀郡の鮎河あいがと黒川との境の山路に、八尺(約二四〇センチ)六面ばかりの巨石があって、石の上に尺ばかりの足跡が鮮やかである。宝暦十一年二月十七日、この地を訪ねてこれを一見した。土人いう、これは昔ダダ坊という大力の僧あって、熊野へ通ろうとして道に迷い、この石の上に立った跡であると。ダダ坊はいかなる人とも知らず、北国諸所には大多おおた法師の足跡というものがあって、これもいかなる法師かを知る者はないが、思うに同じ人の名であろうと述べている。自分の興味を感ずるのは、ダダ坊というような奇妙な名はこれほどまでひろく倶通ぐつうしておりながら、かえってその証跡たる足形の大いさばかり、際限もなく伸縮していることである。

 そこで試みにこの大入道が、果していずれの辺まで行って引き返し、もしくは他の霊物にその事業を譲って去ったかを、尋ねてみる必要があるのだが、京都以西はしばらく後回しとして北国方面には自分の知るかぎり、今日はもうダイダ坊、あるいは大田坊の名を知らぬ者が多くなった。しかし『三州奇談』という書物のできたころまでは、加賀の能美のみ郡の村里にはタンタン法師の足跡という話が伝わり、現にまたその足跡かと思われるものが、少なくもこの国に三足だけはあった。いわゆる能美郡波佐谷はさだにの山の斜面に一つ、指の痕まで確かに凹んで、草の生えぬところがあった。その次に河北郡の川北村、木越の道場光林寺の跡という田の中に、これもいたって鮮明なる足跡が残っていた。下に石でもあるためか、一筋の草をも生ぜず、夏は遠くから見てもよくわかった。今一つは越中との国境、有名なる栗殻くりからの打越にあった。いずれも長さ九尺(約二七〇センチ)、幅四尺(約一二〇センチ)ほどとあるから、東京近郊のものと比べものにならぬ小ささだが、その間隔はともに七、八里(約二八、三ニキロメートル)もあって、あるいは加賀国を三足に歩いたのかと考えた人もある。もちろんそのような細引のごとき足長は、つり合いの上からもとうていこれを想像することを得ないのである。

鬼と大人と

 高木誠一君の通信によれば、福島県の海岸地方では、現在は単にオビトアシト(大人足跡)と称えている。しかもその実例はきわめて多く、現に同君の熟知する石城双葉の二郡内のものが、九か所まで数えられる。その面積は五畝歩から一段いったんまで、いずれも湿地沼地であり、または溜池に利用せられている。鉄道が縦断してから元の形は損じたけれども、久ノ浜中浜の不動堂の前のつつみ、それから北迫きたさこの牛沼のごときは、大人がこの二か所に足を踏まえて三森山に腰をかけ、海で顔を洗ったという話などがまだ残っているという。

 宮城県に入ると伊具いぐ麚狼山かろうざんの巨人などは、久しい前から手長明神として肥られていた。山から長い手を延ばして貝を東海の中にとって食うた。新地村の貝塚はすなわちその貝殻をすてた故跡などというロ碑は、必ずしも常陸の古風土記の感化と解するをもちいない。名取郡茂庭の太白山を始めとして、麓の田野には次々に奇抜なる印象が、多くの新しい足跡とともに散乱していたのである。ただし大人の名前ぐらいは、別に奥州の風土に適応して、発生していてもよいのであるが、それさえなお往々にして関東地方との共通があった。たとえば『観蹟聞老志かんせきぶんろうし』は漢文だからはっきりせぬけれども、昔白川に大胆子と称する巨人があって、村の山を背負って隣郷に持ち運んだ。下野の茂邑山もむらやまはすなわちこれであって、那須野の原にはその時の足跡があるという。ただしその幅は一尺(約三〇センチ)で長さが三尺(約九〇センチ)云々とあるのは、これも少しばかり遠慮過ぎた吹聴であった。

 もっとも大胆子を本当の人間の大男と信ずるためには、実は三尺、二尺(約六〇センチ)といってみてもなお少しく行き過ぎていた。だから悪路王あくろおう・大竹丸・赤頭あかがしらという類の歴史的人物は、後にその塚を開いて枯骨を見たという場合にも、腫の長さは三、四尺(約九〇、一二〇センチ)にとどまり、歯なども長さ二寸(約六センチ)か三寸(約九センチ)のものが、せいぜい五十枚ぐらいまで生えそろうていたようにいうのである。したがって名は同じく大人といっても、近世岩木山や吾妻山に活きて住み、おりおり世人に恐ろしい姿を見せるという者は、いわば小野川・谷風の少しのびたほどでたくさんなのであった。それが紀伊大和の弁慶のごとく、山を背負い岩に足形を印すということも、見ようによってはいよいよもって尊び敬うべしという結論に導いたかも知れない。すなわち近江以南の国々の足跡面積の限定は、一方においては信仰の合理的成長を意味するとともに、他の一方には時代の好尚に追随して、大事な昔話を滑稽文学の領域に、引き渡すに忍びなかった地方人の心持ちがうかがわれると思う。もしそうだとすれば中世以来の道場法師どうじょうほうし説のごときは、また歴史家たちのこの態度に共鳴した結果といってもよいのである。

 奥羽地方の足跡のだんだんに小さくなり、かつ岩石の上に印した例の多くなっていくことは、不思議に西部日本の端々と共通である。自分などの推測では、これは巨人民譚の童話化とも名づくべきものが、琵琶湖と富士山との中間において、ことに早期に現れたためではないかと考える。しかも山作りの一条のその後に付添した挿話でなかったことは、ほぼ確かなる証拠がある。会津柳津やないづの虚空蔵堂の境内には、有名なる明星石があって、石上の足跡を大人のだと伝えているに、猪苗代いなわしろ湖の二子島では、鬼が荷のうてきた二箇の土塊が、落ちてこの島となると称し、その鬼が怒って二つに折れた天秤棒てんびんぼうを投げ込んだという場所は、湖水の航路でも浪の荒い難所である。すなわち足跡はたいてい人間より少し大きいくらいでも、神だから石が凹み、鬼だから山を負う力があったと解したのである。『真澄遊覧記』には、南秋田の神田という村に、鬼歩荷森おにのかちにもりがあると記して、絵図を見ると二つの路傍の塚である。あんな遠方までもなお大人は山を運んであるいた。そうして少なくともその仕事の功程によって判ずれば、鬼とはいってもわれわれのダイダラ坊と、もともと他人ではなかったらしいのである。

太郎という神の名

 自分らが問題として後代の学者に提供したいのは、必ずしも世界多数の民族に併存する天地創造譚の些々ささたる変化ではない。日本人の前代生活を知るべく一段と重要なのは、いつからまたいかなる事由の下に、われわれの巨人をダイダラ坊、もしくはこれに近い名をもって呼び始めたかという点である。京都の付近では広沢の遍照寺の辺に、大道法師の足形池があることを、『都名所図会』に挿画を入れて詳しく記し、乙訓おとくに郡大谷の足跡清水は、『京羽二重きょうはぶたえ』以下の書にこれを説き、長さ六尺(約一八〇センチ)ばかりの指痕分明なりとあって、今の長野新田の字大道星はすなわちこれだろうと思うが、去ってーたび播州の明石まで踏み出せば、もうそこには弁慶の荷塚にないづかかあって、奥州から担いで来た鉄棒が折れ、怒ってその棒で打ったと称して頂上が窪んでいた。だからダイダ坊などはよいかげんの名であろうと、高をくくる人もあるいはないと言われぬが、自分だけはまだ決してそう考えない。畿内の各郡から中国の山村にかけて、行ってはみないが大道法師、ダイダラ谷、ダイダラ久保などという地名が、並べてよければいくらでもここにあげられる。つまりは話はおもしろいが人は知らぬゆえに、大人という普通名詞で済ましておき、弁慶が評判高ければあの仁でもよろしとなったのであろう。笠井新也君が池田の中学校にいたころ、生徒にすすめて故郷見聞録を書かせた中に、備前赤磐あかいわ郡の青年があって、地神山東近くの山上の石の足跡を語るのに、大昔造物師という者がきて、山から山をまたいで去った。それで土人がその足跡を崇敬すると述べている。ヤソ教伝道の初期には、いずれの民族にもこんな融合はあったものである。

 紀州の百あまりの足跡はその五分のーを弁慶に引き渡し、残りを大人の手に保留している。美作みまさかの大人足跡もその一部分を土地の怪傑目崎太郎や三穂さんぼ太郎に委譲している。西は備中・備後・安芸・周防、長門・石見などでもただ大人で通っている。それから四国へ渡ると讃州長尾の大足跡、また大人の蹴切山がある。伊予でも同じく長尾という山の麓に、大人の遊び石という二箇の巨巌があった。阿波は剣山山彙をまとって、もとより数多い大人さまの足跡があり、あるいは名西みょうざい地方の平地の丘に、山作りのもっこの目から、こぼれてできたというものもニつもある。土佐でも幡多はた、高岡の二郡には、いろいろの例があっていずれも単に大人田、もしくは大人足跡で聞こえていた。だからもうこの方面にはダイダラ坊の仲間はないのかと思うと、あにはからんや柳瀬貞重の筆録を見ると、かえって阿波に近い韮生にろう郷の山奥に、同名の巨人は悠然として隠れていた。すなわちこの筆者の居村なる柳瀬の在所近くに、立石・光石・降石ぶりいしの三箇の磐石があって、前の二つはダイドウボウシこれを棒にかつぎ、降石はたもとに入れてこの地まで歩いてくると、袖がほころびてすっこ抜けてここへ落ちた。それで降石だと伝えているのである。

 そこで私たちは、これほどにしてまでもぜひともダイドウボウシでなければならなかった理由は何かということを考えてみる。それにはまず最初に心づくのは、豊後ぶんご嫗岳うばだけの麓において、神と人間の美女との間に生まれた大太という怪力の童児である。山崎美成の『大多法師考』に引用する書『言字考』には、近世山野の際に往々にして大太坊の足蹤あしあとと伝うるものは、疑うらくはこの皹童あかがりわらわのことかと言っている。証拠はまだ乏しいのだから菟罪であっては気の毒だが、少なくとも緒方氏、臼杵氏などの一党が、この大太を家の先祖とせんがために、すこぶる古伝の修正を試みた痕は認められる。なるほど後に一方の大将となるべき勇士に、足跡が一反歩もあっては実は困ったもので、山などはかついでこなくとも、別に神異を説く方便はあったのであろう。しかしどうして大太というがごとき名が付いたかといえば、やはり神子にしてかつ偉大であったことが、その当初の特徴であったゆえなりと、解するの他はなかったのである。

 柳亭種彦の『用捨箱ようしゃばこ』には、大太発意だいたぼっちはすなわち一寸法師の反対で、これも大男をひやかした名だろうと言ってある。大太郎といういみじき盗の大将軍の話は、早く『宇治拾遺』に見えており、烏帽子えぼし商人の大太郎は『盛衰記』の中にもあって、いたってありふれた名だから不思議もないようだが、自分はさらにさかのぼって、何ゆえにわれわれの家の惣領息子を、タラウと呼び始めたかを不思議とする。漢字が入ってきてちょうど太の字と郎の字をあててもよくなったが、それよりも前から藤原の鎌足だの、足彦たらしひこ帯姫たらしひめという貴人の御名があったのを、まるで因みのないものと断定することができるであろうか。筑後の高良こうら社の延長年間の解状げじょうには、大多良男だいだらおと大多良ひめのこの国の二神に、従五位下を授けられたことが見え、宇佐八幡の『人聞菩薩朝記』には、豊前ぶぜんの猪山にも大多羅眸神を祭ってあったと述べている。少なくもそのころまでは、神にこのような名があっても怪しまれなかった。そうして恐らくは人類のために、射蹴裂けさきというような奇抜きわまる水土の功をなしとげた神として、足跡はまたその宣誓の証拠として、神聖視せられたものであろうと思う。

古風土記の巨人

 そう考えるとダイダラ信仰の発祥地でなければならぬ九州の島に、かえってそのロ碑のやや破砕して伝わった理由もわかる。すなわち九州東岸の宇佐とその周囲は、巨人神話の古くからの一大中心であったゆえに、同じ古伝を守るときは地方の神々はその勢力にまき込まれる懸念があったのみならず、一方本社にあっては次々の託言をもって、山作り以上の重要なる神徳を宣揚した結果、自然に他の神々が比較上小さくなってしまうので、むしろこれを語らぬのを有利とする者が多くなったのである。これは決して私の空漠たる想像説ではない。日本の八幡信仰の興隆の歴史は、ほとんど一つ一つの過程をもって、これを裏書きしていると言ってよいのだ。

 これを要するに巨人が国を開いたという説話は、本来この民族共有の財産であって、神を恭敬くぎょうする最初の動機、神威神力の承認もこれから出ていた。それが東方に移住して童幼の語と化し去る以前、久しく大多良の名は仰ぎ尊まれていたので、その証跡は足跡よりもなお鮮明である。諾冉なぎなみ二尊の大八洲おおやしま生誕は説くもかしこいが、今残っているいくつかの古風土記には、地方の状況に応じて若干の変化はあっても、一つとして水土の大事業を神にゆだねなかったものはないと言ってよろしい。その中にあって常陸の大櫛岡の由来のごときはむしろ零落である。それよりも昔なつかしきは出雲の国引きの物語、さては播磨の託賀たか郡の地名説話のごとき、目を閉じてこれをそらんずれば、親しく古え人の手を打ち笑い歌うを聞くがごとき感がある。まだ知らぬ諸君のために、一度だけこれをじゅしてみる。いわく、右託加たかと名づくるゆえんは、昔大人おおひとありて常にかがまりて行きたりき。南の海より北の海に到り、東より(西に)巡り行きし時にこの土に来到きたりていえらく、他の土はいやしくして常にまがり伏して行きたれども、この土は高くあれば伸びていく。高きかもといえり。かれ託賀たかこおりとはいうなり。そのみし跡処あとどころ数々あまた、沼となれり(以上)。私の家郷もまた播磨である。そうして実際こう語った人の後裔であることを誇りとする者である。

 証拠は断じてこればかりではなかった。南は沖縄の島に過去数千年のあいだ、口づから耳へ伝えて今、なお保存する物語にも、大昔天地が近く接していた時代に、人はことごとく蛙のごとくってあるいた。アマンチュウはこれを不便と考えて、ある日堅い岩の上に踏張ふんばり、両手をもって天を高々と押し上げた。それから空は遠く人は立って歩み、その岩の上には大なる足跡を留めることになった。あるいはまた日と月とを天秤てんびん棒にかついで、そちこちを歩き回ったこともある。その時棒が折れて月日は遠くへ落ちた。これを悲しんで大いに泣いた涙が、国頭本部くにがみもとぶの涙川となって、末の世までも流れて絶えせずと伝えている(故佐喜真興英君の『南島説話』による)。アマンチュウは琉球の方言において、天の人すなわち大始祖神を意味しており、正しくこの群島の盤古ばんこであった。そうしてこれが赤道以南のポリネシヤの島々の、ランギパパの昔語りと近似することは、私はもうこれを絮説じょせつするの必要を認めない。

大人弥五郎まで

 これまでに大切なわれわれが創世紀の一篇は、やはり人文の錯綜さくそうに基づいて、後ようやく微にしてかつ馬鹿馬鹿しくなった。九州北面の英雄神は、故意に宇佐の勢力を回避して外海に向かわんとしたかのごとき姿がある。壱岐いきの名神大社住吉の大神は、英武なる皇后の征韓軍に先だって、まずこの島の御津浦に上陸なされたと称して、『太宰管内志』には御津八幡の石垣の下にある二石と、この浦の道の辻に立つ一つの石と、三箇の御足形の寸法を詳述している。いずれもその大いさ一尺一、二寸(約三三、三六センチ)、爪先は東から西に向いている。信徒の目をもって見れば、それ自身が神の偉勲の記念碑に他ならぬのだが、しかも『壱岐名勝図誌』の録するところでは、この島国分こくぶ初丘はつおかの上にあるものは、大はすなわち遥かに大であって、全長南北に二十二間(約四〇メートル)、拇指おやゆびの痕五間半(約一〇メートル)、きびすの幅二間(約三メートル六〇センチ)、少し凹んでづいているとあるが、これは昔おおという人があって、九州から対馬つしまに渡る際に足を踏み立てた跡だといい、しかも村々にも同じ例が多かったのである。それまではまだよいが、肥前平戸島の薄香うすか湾頭では、キリシタンバテレンと称する怪物があって、海上を下駄ばきで生月いきつきその他の島々にまたいだともいっている。すなわち古く近江の石山寺の道場法師の故跡と同じく、残っているのは下駄の歯の痕であったのである。

 それから南へ下っては肥後鹿本かもと郡吉松村の北、薩摩では阿久根の七不思議に数えられる波留はるの大石のごとき、ともに大人の足跡というのみで、神か鬼かのけじめさえ明瞭でない。その名の早く消えたのも怪しむに足らぬのである。ところがこれから東をさして進んで行くと、諸所にあたかも群馬県の八掬脛やつかはぎのごとく、神に統御せられた大人の名と話が分布している。阿蘇明神の管轄の下においては鬼八法師、または金八坊主というのが大人であった。神に追われて殺戮さつりくせられたというかと思うと、塚あり社あって永く祀られたのみならず、その事業として残っているものが、ことごとく凡人をして瞠目どうもくせしむべき大規模なものであり、しかも人間のためには功績があって、あるいはもと大神の眷属けんぞくであったようにも信ぜられたのであった。

 その矛盾の最初から完全に調和せぬものであったことは、さらに日向大隅の大人弥五郎と、比較してみることによって明白になるかと思う。弥五郎は中古に最も普通であった武家の若党家来の通り名で、それだけからでも神の従者であったことが想像せられる。しこうして大人弥五郎の主人は八幡様であった。大隅国分こくぶの正八幡宮から、分派したろうと思う付近多くの同社では、その祭の日に必ず巨大なる人形を作ってこれを大人弥五郎と名づけ、神前に送り来って後に破却し、または焼きすてること、あたかも津軽地方の佞武多ねぶたなどと一様であった。そうしてその行事の由来として、八幡宮の大人征服の昔語を伝えているのである。あるいはその大人の名を、大人隼人はやとなどと説いたのも明白なる理由があった。すなわち和同養老の九州平定事業に、宇佐の大神が最も多く参与せられ、その記念として今日の正八幡があるのだという在来の歴史と、こうすれば確かにやや一致してくるからである。

『大人隼人記』という近代の伝記には、国分上小川の拍子橋ひょうしばしの上において、日本武尊やまとたけるのみこと大人弥五郎を誅戮ちゅうりくしたまうなどといっているそうだ。そのしかばねを手切り足切り、ここに埋めそこに埋めたという類の話は、今も到るところの住民の口に遺っているのだが、しかも一方においては大人はなお霊であって、足跡もあれば山作りの物語も依然として承継せられるので、それほど優れた神を何ゆえに凶賊とし、ほふって後また祭らねばならなかったかの疑いは、実はまだ少しも解釈せられてはいなかった。大隅市成村諏訪原の二子塚は、一つは高さ二十丈(約六〇メートル)、周五町(約五四五メートル)あまり、他の一つはほぼその半分である。相へだたること一町(約一〇九メートル)ばかり、これも昔大人弥五郎が草畚ひもっこで土を運んだ時に、棒が折れてこぼれてこの塚となったという点は、富士以東の国々と同じである。ひとり山をにのうてきたのみでない。日向の飫肥おびの板敷神社などでは、稲積弥五郎大隅の正八幡を背に負い、この地に奉安して社を建てたといい、やはりその記念として行なうところの人形送りは、全然他の村々の浜殿下はまどのおりの儀式、隼人征討の故事というものと一つである。それから推して考えていくと、肥前島原で味噌五郎といい、筑豊長門において塵輪じんりんといい、備中で温羅おんらといい、美作みまさかで三穂太郎目崎太郎といい、因幡で八面大王などと伝えている怪雄、それから東に進むと美濃国の関太郎、飛騨の両面の宿儺すくな、信州では有明山の魏石鬼ぎしき、上州の八掬脛、奥羽各地の悪路王、大武丸おおたけます、およびその他の諸国で簡単に鬼だ強盗の猛なる者だと伝えられ、ほとんど明神のご威徳を立証するために、この世に出てあばれたかとも思われる多くの悪者などは、実は後代の神戦の物語に、若干の現実味を鍍金めっきするの必要から出たもので、例えば物部守屋もののべのもりやや平将門が、死後にかえって大いに顕われたごとく、本来はそれほど純然たる凶賊ではなかったのかも知れぬ。それは改めてなお考うべしとしても、少なくとも弥五郎だけは忠実なる神僕であった証拠がある。しこうしてそれが殺裁せられて神になったのは、また別の理由があったのである。

 もう長くなったからとにかくにこの話だけの結末をつけておく。われわれの巨人説話は、二つの道をあるいて進んできたらしい跡がある。その一方はつとに当初の信仰と手を分ち、弾なる古英雄説話の形をもって、諸国の移住地に農民の伴侶として入りきたり、彼らが榾火ほだびの側において児女とともに成長した。他の一方は因縁深くして、春秋の神を祭る日ごとに必ず思い出しまた語られたけれどもーここでも信仰が世とともに進化して、神話ばかりが旧い型を固守しているということはかたかった。すなわち神主らは高祖以来の伝承を無視する代わりに、それを第二位、第三位の小神に付与しておいて、さらに優越した統御者を、その上に想像し始めたのである。名称は形であるゆえに、もとよりこれを新たなる大神に移し、一つ一つの功績だけは古い分からこれを下臘げろうの神におろしたまわったのである。菅原天神が当初憤恚ふんい激怒の神であって、後久しからずしてそれは春属神の不心得だから、訓誡くんきしてやろうと託宣せられ、牛頭ごず天王が疫病散布の任務を八王子神に譲られたというがごとき、いずれも大人弥五郎の塚作りなどと、類を同じくする神話成長の例である。いくら大昔でもそんなことはあり得ないと決すれば、恐らくはまた次第に消えて用いられなくなることであろう。

 村にさびしく冬の夜を語る人々に至っては、その点においてやや自由であった。彼らはたくさんな自分の歴史を持たぬ。そうして昨日の向こう岸を、茫洋ぼうようたる昔々の世界につなぎ、必ずしも分類せられざるいろいろの不思議を、その中に放しておいてながめた。一たん不用になって老嫗ろうおうの親切なる者などが、孫どもの寝つかぬ晩のために貯えていた話も、時としては再び成人教育の教材に供せられる場合があった。すなわち童話と民諏との境は、渚の痕のごとく常になびき動いていたのである。しこうしてもし信じ得べくんばつとめてこれを信じようとした人々の、多かったことも想像し得られる。伝説は昔話を信じたいと思う人々の、特殊なる注意の産物であった。すなわち岩や草原に残る足形のごときものを根拠としなければ、これをわが村ばかりの歴史のために、保留することができなかったゆえに、ことにそういう現象を大事にしたのである。しこうしてわが武蔵野のごときは、かねて逃水にげみず堀兼井ほりがねのいの言い伝えもあったごとく、最も混乱した地層と奔放自在なる地下水の流れをもっていた。泉の所在はたびたびの地変のためにいろいろと移り動いた。郊外の村里にはかつて清水があるによって神を祭り居を構え、それがまた消えた跡もあれば、別に新たに現れた例もまた多い。かくのごとき奇瑞きずいが球が突如として起こるごとに、あるいはかのダイダラ坊様の所業であろうかと解した人の多かったことは、数千年の経験に生きた農夫として、いささかも軽率浅慮の推理ではなかった。説話はすなわちこれに基づいて復活しまたしばしばその伝説化をくり返したものであろうと思う。

(昭和二年四月『中央公論』)

注釈

  1. 底本として角川ソフィア文庫版『一目小僧その他』を使用した。表記は現代仮名遣い・新字体となっている。
  2. 紫の一本』の記述をそのまま引用しているが、実際の代田橋は笹塚の先になる。
  3. 底がV字形にとがった断面を持つ堀を「薬研堀(やげんぼり)」という。
  4. 野沢龍雲寺の北にある世田谷区立鶴ヶ久保公園(東京都世田谷区野沢2丁目4-6)にあたる。旭小学校と野沢稲荷神社の間にある。
  5. Web東京荏原都市物語資料館:下北沢X物語(2727)~駒沢ダイダラボッチは鶴ヶ久保2~ - livedoor Blog(ブログ)では、下馬6丁目33-15にあった「清水丸弁才天」(宅地内)がこれに該当すると推測されている。
  6. 釈敬順『十方庵遊歴雑記』三編 巻之上 第十四「武州豊島郡沼田村へわたり越さんといふ、豊島の渡しの手前西側畑の中に大道法師(ダイドウホウシ)の塚あり。世上の流布語に大道法師(ダイダボッチ)と稱する是なり、土人の説に大道法師の草鞋につきし土砂落ちたりしが塚になりしといひ傳ふ、里俗はこれを稲荷塚とも稱し、或ハ此あたりを小名に呼て代田ともいえり。是音のかよふを以て土人認め傳へしにや、又此側に小さき塚一つ中古までありしを、畑主破壇し圃に引ならしけるに、馬骨とも覚しき物夥しく出しが、その祟りにや畑主は年久しく煩ひたれバ、恐れて大道法師の塚へハ鎌さへも入すとなん。大道法師といふもの、いかなる人にや怪しき巷談ながら見聞せしままを記す、周圍凡三間余もあらん、圖の如し。」
    「豊島の渡し」は別名「六阿弥陀の渡し」と呼ばれ、隅田川が大きく蛇行する「天狗の鼻」にあった。現在の豊島橋の200mほど上流に当たる。
    しかし、『新編武蔵風土記稿』によれば、正しくは臺坐(台坐=だいざ)塚であり、このあたりの小名は台坐(だいざ)であった。おそらくこれは十方庵敬順の誤りで、豊島に「代田」という小名はなかったと思われる。塚は、ちょうどこの文章が発表された当時建設中の荒川放水路により失われたものと思われる。
  7. 『松屋筆記』は、小山田与清(おやまだともきよ)著の江戸後期の随筆。
  8. 『松屋筆記』巻之五(一)ダイラボッチの足跡 武蔵相模などの国人が常にダイラボッチとて形大なる鬼神のやうにいひあざむものあり相模野の中に大沼といふ沼ありそれはダイラボッチが富士の山を背負はんとせし時足をふみしあと也といひまた此原に藤のたえてなきはそのをり背負し縄のきれたれば藤を求めけれどもなかりしゆゑの因縁なりといひつたへたり笈埃随筆にも大多法師が足跡と云ふ事を記したり与清按に台記久安二年九月廿七日の條に此日詣石山寺云々見閼伽井乗恵曰道塲法師以爪掻出此水又有道塲法師屐跡幷一二石とみえ本朝文粹日本霊異記旧本今昔物語などにも道塲法師が怪力のよしあればそのころことごとしく世にいひつたへけん諺が今になほ田舎にのこれるなるべし
  9. 平成十三年(2001年)に登録された相模原市登録文化財11.でいらぼっち伝説伝承地(でいらぼっちでんせつでんしょうち)|相模原市では、このように記されている。「巨人伝説の主人公「でいらぼっち」の伝承は、相模原台地上段の沼地やくぼ地の形成伝承として市民に親しまれています。
    鹿沼公園の池は、「でいらぼっち」が富士山を背負ってきて一休みしたが、休んでいる間に富士山に根が生えて動かなくなったので、地団駄(じだんだ)を踏んで悔しがった、その足跡であるという伝承が残されています。
    鹿沼のほか、淵野辺地区では菖蒲沼(しょうぶぬま)、大沼地区の大沼、若松地区の小沼や、大野台、清新、橋本、矢部、東林間などのくぼ地に、「でいらぼっち」伝承があります。」
  10. 鹿沼公園:神奈川県相模原市中央区鹿沼台2丁目15
  11. 菖蒲沼は現在の青山学院大学相模原キャンパス内に跡地がある。
  12. ふんどし窪は下溝の相模原公園近くとされる。
  13. 小比企は京王線山田駅の南、宇津貫はJR横浜線八王子みなみ野駅の南側に位置する。片倉つどいの森公園近辺を指しているか?
  14. 山入は現在の八王子市美山町。縄切バス停が現存する。
  15. 山中共古『甲斐の落ち葉』大正十五年(1926年)
  16. 加納岩村は現在の山梨市の一部にあたる。中央本線山梨市駅の南に石森山がある。塩山(えんざん)は現在の甲州市の一部である。
  17. 茂原市立木には足形に見える沼がある。なお、立木地区の北西側には「台田(ダイダ)」が残る。江戸時代の台田村であり、台地上の地という意味である。世田谷の「代田」も本来は台田ではなかったか。
  18. 葦沼:宇都宮市芦沼町と思われる。
  19. 飯綱高原キャンプ場の横に「大座法師池」がある。