武蔵国

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武蔵国(むさしのくに)は東海道に属する令制国である。下北沢地域は武蔵国荏原郡木田郷に属したと考えられる。

概要[1]

武蔵国は古くは身刺、または牟邪志と書き、むさしのくにと読んだ。東海道にあり、東は下総、西は信濃・甲斐、南は相模、北は上野に接し、東南は湾に至る。東西はおよそ26里、南北およそ25里である。その知性は、利根の河流が北の境となり、秩父の山峰が西の境に連なる。その間はおおむね平坦で広く、武蔵野といわれ、坂東平野の中部に属する。

この国はむかし国府を多磨郡に置き、久良木(くらき)、都筑(つづき)、多麻(たま)、橘樹(たちばな)、荏原(えばら)、豊島(としま)、足立(あだち)、新座(にひくら)、入間(いるま)、高麗(こま)、比企(ひき)、幡羅(はら)、横見(よこみ)、崎玉(さいたま)、大里(おほさと)、男衾(をぶすま)、榛沢(はんざは)、那珂(なか)、児玉(こだま)、賀美(かみ)、秩父(ちちぶ)の21郡を管し、延喜の制では大国に列する。後、下総国葛飾郡の一部を割いてこの国に属させた。

徳川氏が幕府をこの国に定めてから、田野は開け、人口も増え、国の様子は一変した。明治維新の後、豊島・葛飾・足立・埼玉の4郡をそれぞれ南北に分け、多磨郡を東西南北の4郡に分割し、29郡を立てた。その後、廃合を行い、東多摩・南豊島の2郡を合わせて豊多摩郡を置き、横見郡を比企郡に、那珂・賀美の2郡を児玉郡に、幡羅・男衾・榛沢の3軍を大里郡に併せ、また下総国中葛飾郡を割いて北葛飾郡に併せ、新たに東京市・横浜市を置いて2市20郡とし、東京府・埼玉県・神奈川県に分知させた。

建置沿革[2]

上古、国造(くにのみやつこ)の時代には、武蔵国は知々夫(⇒秩父)、无邪志(⇒武蔵)、胸刺の3国の地であった。

開闢の順序は知々夫が最初で、知々夫彦命を国造と定めた。その後、国造についての記載はなく、さらに知々夫の地を国から郡に降格して武蔵に編入させた年代も伝わっていない。

无邪志国の地域はわからないが、古書に足立府を載せていることに従えば、足立・埼玉あたり数郡の地が管轄地と考えられる。境界は成務天皇五年に定められたと伝えられ、兄多毛比命を国造と定められた[3]。その後、三百余年の間、无邪志国造についての記載はない。当時の国父は足立郡にあって、大宮宿あたりに遺跡がある。

また、応神天皇の御代[4]、胸刺国造を伊狭知直[5]に定めた。胸刺が今のどこの場所にあたるかはわからなが、西に知々夫あり、東に无邪志があれば、今の多磨郡の地であろう。年紀としては、无邪志国造を置かれてから朝廷で4世、年は百年経過している。胸刺も、国造総数144のうちにあるという。

この後、4世の大王を経て、允恭天皇の時代、諸国境の標識を立てたという。このときはまだ3国であった。この後、胸刺国のことはまったく伝わっていない。それから8世の大を経て、継体天皇の時、国造一族が互いに職を争ったことがある。想像するに、当時既に胸刺国を廃して武蔵に入れたのであろう。天下に畿内七道を置かれたとき、この国は東海道に入ることとなった。(以下略)

国号の由来説

古事記伝(本居宣長)

七 牟邪志(ムザシ)国造、武蔵である。今は邪を澄んで読む(サ)が、濁る(ザ)べきである。この邪や蔵の字、また万葉集巻十四に「牟射志野」と書く射の字、いずれも濁音に用いられる。名義はよくわからない。師(※賀茂真淵)の説には、「相模・武蔵はもと一つであって牟佐だったのを上下に分けて牟佐上・牟佐下といった。上の方は牟を略し(むさがみ⇒さがみ)、下の方はモを略した(むさしも⇒むさし)のだ。牟佐という地名は国々に多く、東の国々では上総・下総、上野・下野などのように上下に分けるのが通例である」とある。この説は一見よさそうだが、疑問もある。

二十七 さて、佐斯を国の名というのは、駿河・相模・武蔵の地をすべてもとは佐斯国と言ったのを二つに分けて相模・武蔵となったのであろう。駿河が後に相模から分かれたのは上述したとおりである。つまり、相模という名は佐斯上(サシガミ)の斯を略し、武蔵は身佐斯(ムザシ)の意であろう。古書では身刺と多く書いている。身とは中に主(ムチ)とあるところをいう。屋の中に主とあるところを身屋というようなものである。後に母屋というのは、牟屋をなまったのである。そうであれば、武蔵は佐斯ノ国の中に、主とある真原(マハラ)の地なのでこのように名づけられたのであろう。佐を濁るのは音便である。さて、一国を二つに分けて名乗る例、あるいは上下というのはよくあることだが、丹波を分けて丹波・丹後というときに後に合わせて丹前とはいわないように、この佐斯国を分けたのも佐斯上に対して佐斯下とはいわなかったとしてもおかしくないだろう。

諸国名義考 上 武蔵(斎藤彦麻呂)

『和名抄』に「武蔵(牟佐の国、府は多麽郡)」。県居大人(※賀茂真淵)は身狭上(ムサガミ)に対する身狭下(ムサシモ)であると言われたが、定かでないことはすでに述べた。『古事記伝』に名義はよくわからないとある。立入信友は「国造本紀に无邪志(ムサシ)の国造の次に胸刺(ムナサシ)の国造とあるのも、近い地名と思える。胸刺・身刺(ムサシ)などの故事によった地名であろうか」と言う。『続日本紀』称徳天皇神護景雲二年六月癸巳「武蔵国、白雉を献ず。……国号を武蔵とする」とあるのは、もと牟邪志の三字を好字に改め、二字に定め、武蔵(ムサ)と書いて志(シ)の字を略したのであるが、後にこの国から白雉を奉ったときに武蔵の二字を祝して奏したという言葉である。必ずしも国名の起こりと思い誤ってはいけない。それなのに、ある書では武蔵国風土記といって引用しているのに、「武蔵国秩父嵩はその勢いは勇者が怒って立っているかのようである。ヤマトタケルがこの山をほめ、祈祷を行い、兵具を岩倉におさめた。ゆえに武蔵という」というのは、むかし字音がなかったことも和銅の勅命も知らぬ後人が字義に合わせてつくった偽作である。このようによくわからない国号である。

武蔵志料 二 武蔵国号考(山岡浚明)

当国の名づけた理由についてはその意味はよくわからない。また、ものにも見るところがない。(中略)さて、その文字も上古は定まることなく、古事記には牟邪志と書いてあるのは仮名書きである。その後、元明天皇の時代に、国郡郷村の名を改めて能字二字に定められたときに武蔵と書き改められたのである。ゆえに、この字からは意味を推し量ってはならない。以下にそのことを記しておく。

  • 第一説 牟邪志美である。その理由は、牟邪は草である。志美は繁ることである。上古の時代、東方の国はいまだ王化も及ばなかったゆえに、民の家居も定まらず。もとより守司の官もなかったほどに、ただ木・草だけ生い茂っていたので、禽獣が住んでいただけであっただろう。後の世であっても、この国には八百里の広野があると有名であって、武蔵野とさえいうくらいなので、「行けども秋の果もなき」などと歌にも詠まれて、天下随一のこととされている。さもありそうなことだ。
  • 第二説 この国は広く大きいため、隣国が六つある。それは相模・甲斐・信濃・上野・下野・下総である。この六国に境があるので、六差という意味である、というのだが、よくわからない。
  • 第三説 この国は関八州の中央にある。これを人の形に例えると、相模を首とする。ゆえに小首(さかみ)というのだ。武蔵はその次にあるので身のようである。身は武と通じて、武久呂ともいう。「さし」は昔、三韓の方言に城を「左志」といった。この訓は日本紀の古点に見える。それで「中央城」の意でもあろうか。
  • 第四説 以上の第三説は文字によらず、詞と意味とによって述べている。さて、元明天皇の時代に文字を改められた時、武蔵としたこと、理由がなければおかしい。そこで思う二、秩父郡に武甲山というのがある。土俗に「昔、ヤマトタケルが東夷を制圧し、その甲をこの山に埋められたという。そのことは摂津国武庫山の故事と同様である。この山も定めて武甲(むこ)と訓ずるところを、字の音の俗に引かれて、今はブコウと読んでいる。その武を用いたか、蔵は扁であって、とざしの略し武事を収め、軍器を山にかくされたため、戸閉(とざし)と言ったのである」という。
    今考えるに、この説は一見説得力がありそうだが、武は音読み、蔵は訓読みである。音訓を混ぜてその意味をいうことは強引であろう。ただし、国郡名は音訓を交えて用いているので、そういうこともないとはいえないので後世の見解を待つ。
  • 第五説 国名風土記に、秩父郡武甲山にヤマトタケルの甲冑を収めたことが書かれている。これは摂津国兵庫の武庫山のことを思い合わせて書いたのではないかとも思えるが、続日本紀 二十九 称徳天皇神護景雲二年六月癸巳「武蔵国、白雉を献ず」その勅語に「国号を武蔵とする」と群卿が奏上したのを思えば、そういうこともあったのかもしれない。ただ、証拠はない。

ある人がいう。武蔵・相模はもと上下の国である。昔、虜囚を武佐といった。上古、三韓の囚人を置いたことが諸国にある。摂津の高麗郡、当国にも高麗郡がある。さて、近江国の武佐の郡も、またその虜囚を置いたところであるから、相模は武佐上の上を略し、武蔵はむさ下の下を略したのであろうという。これは上下国を分けた例であるという。

和名類従抄 五 国郡

武蔵国は21を管する。久良(くらき)、都筑(つづき)、多磨(たば 国府)、橘樹(たちばな)、荏原(えばら)、豊島(としま)、足立(あだち)、新座(にひくら)、入間(いるま)、高麗(こま)、比企(ひき)、横見(よこみ。吉見と称する)、埼玉(さいたま)、大里(おほさと)、男衾(をぶすま)、幡羅(はら)、榛沢(はんざは)、那珂(なか)、児玉(こだま)、賀美(かみ)、秩父(ちちぶ)。

延喜式 二十二 民部

武蔵国、大国。久良、都筑、多麻、橘樹、荏原、豊島、足立、新座、入間、高麗、比企、幡羅、横見、埼玉、大里、男衾、榛沢、那珂、児玉、賀美、秩父。遠国である。

注釈

  1. 概要の節は、『古事類苑』地部十一「武蔵国 上」より。なお、本項の現代語訳はすべて木田沢ダイタによる。
  2. 建置沿革の節は、『新編武蔵風土記稿』二 建置沿革 より
  3. 『先代旧事本紀』「国造本紀」度会延佳本で兄多毛比命と書かれているが、神宮文庫本では「兄多比命」と書かれている。
  4. 国造本紀にはいつの時代と書かれていないが、新編武蔵風土記稿の編者がこの時代に比定している
  5. 岐閉国造の祖兄多毛比命の子。もし无邪志国造の子が胸刺国造だとすれば、ムサシとムネサシは同じ国の別表記ではないかと思われる。