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	<title>だいた橋 (紫の一本) - 版の履歴</title>
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	<updated>2026-04-29T15:36:05Z</updated>
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		<title>木田沢ダイタ: ページの作成:「17世紀の江戸地誌・仮名草子である『紫の一本』巻下〈橋は〉「だいた橋」の現代語訳および原文である。  典拠は『戸田茂…」</title>
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		<updated>2019-08-25T06:05:31Z</updated>

		<summary type="html">&lt;p&gt;ページの作成:「17世紀の江戸地誌・仮名草子である『&lt;a href=&quot;/pedia/%E7%B4%AB%E3%81%AE%E4%B8%80%E6%9C%AC&quot; title=&quot;紫の一本&quot;&gt;紫の一本&lt;/a&gt;』巻下〈橋は〉「だいた橋」の現代語訳および原文である。  典拠は『戸田茂…」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&lt;b&gt;新規ページ&lt;/b&gt;&lt;/p&gt;&lt;div&gt;17世紀の江戸地誌・仮名草子である『[[紫の一本]]』巻下〈橋は〉「だいた橋」の現代語訳および原文である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
典拠は『戸田茂睡全集&amp;lt;ref&amp;gt;[http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/945799 国立国会図書館デジタルコレクション]を底本とした。&amp;lt;/ref&amp;gt;』、現代語訳は木田沢ダイタによる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==現代語訳==&lt;br /&gt;
'''だいた橋'''、[[ダイダラボッチ|だいたぼっち]]が掛けた橋と言い伝える&amp;lt;ref&amp;gt;[[代田橋]]は[[玉川上水]]と[[甲州街道]]の交わるところに掛けられた橋である。玉川上水の建設は承応二年（1653年）4月着工・11月開通である。本書が書かれた天和三年（1683年）の30年前のことであった。一方、[[代田]]という地名自体はそれ以前にさかのぼる。また、ここで[[代田のダイダラボッチの足跡]]についての言及はない。&amp;lt;br /&amp;gt;このことから以下のとおり推測される。&amp;lt;br /&amp;gt;　1）玉川上水が甲州街道と交わる[[代田村]]の橋だから「代田橋」と名づけられた。&amp;lt;br /&amp;gt;　2）ダイタという地名からダイダラボッチ伝説と結びつけられた。&amp;lt;br /&amp;gt;　3）近くの沼地がダイダラボッチの足跡とされた。&amp;lt;br /&amp;gt;　4）柳田國男が『[[ダイダラ坊の足跡]]』に記載し、代田地名の由来という説が固定化した。&amp;lt;/ref&amp;gt;。四ッ谷新町の先、[[笹塚]]の手前である&amp;lt;ref&amp;gt;実際には笹塚の先となる。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
肥後国八代領内に{{ルビ|百合若|ゆりわか}}塚というものがある&amp;lt;ref&amp;gt;現在、百合若塚がどこにあったのかは確認できない。&amp;lt;/ref&amp;gt;。塚の上に大木がある。地元の者が言うには、「百合若は身分の低い者だ。大臣&amp;lt;ref&amp;gt;「百合若大臣」という名の巨人伝説が伝えられている。&amp;lt;/ref&amp;gt;というのは大人（タイジン＝大きな人）のことであり、大太ともいう。大きな人で大きな力があり、強弓を引き、礫（つぶて＝小石）を打つことができた。今、大太ぼっちというのは百合若のことである。ボッチというのは礫のことである」という。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ある年、台風でその塚の上の大木が倒れ、塚が崩れた中に、石棺があった。中を見ると、普通の人の首を四つ五つ合わせたほどの首があった。不思議だとみているうちに、雪や霜のように消え失せた。これによって、おおきな卒塔婆を立てて、この様子を書き付けて塚の上に立てた。その卒塔婆は今も残っているという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
百合若のことは筑紫人であり、玄海島で鬼を退治したことは、百合若の舞（幸若舞）にみえる。しかし、奥州の島の中に百合若島&amp;lt;ref&amp;gt;この島の情報は不詳。&amp;lt;/ref&amp;gt;というのがあって、緑丸という鷹のことまで確かにある島があるという。また、上州妙義山の道にも百合若の足跡・矢の跡というのがある&amp;lt;ref&amp;gt;群馬県・妙義山の星穴岳の伝説。星穴岳には百合若が射抜いた「射抜き穴」と「むすび穴」が開いている。また、百合若が矢を射るために踏ん張った足跡が、下横川の小山沢と、五科の中木にある。&amp;lt;/ref&amp;gt;。このほかにも、大太ぼっちの足跡・力業の跡はあちこちにある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==注釈==&lt;br /&gt;
&amp;lt;references /&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==原文==&lt;br /&gt;
'''だいた橋'''、だいたぼっちが掛たる橋のよし云伝ふる、四ッ谷新町の先笹塚の手前なり、肥後国八代領の内に百合若塚と云あり、塚の上に大木あり、所の者云、百合若は賤き者なり、大臣と云は大人なり、大太とも云、大人にて大力ありて強弓を引き、よく礫を打つ、今大太ぼっちと云は百合若の事、ぼっちとは礫の事なりとぞ、一とせ大風にて、右の塚の上の大木たふれて塚崩たる中に、石のからうと有り、内を見るに、常の人の首四つ五つ合せたる程の首有り、不思議を立て見る内に、雪霜のごとく消失せぬ、依之大き成る卒塔婆をたて、右の様子を書付て塚の上に立る、其卒塔婆今にありとぞ、百合若の事筑紫人にて、玄海が島に於て鬼を平ぐる事、百合若の舞に見えたり、然るに奥州の島の内に百合若島と云ありて、みどり丸と云鷹の事まで慥にある島ありとぞ、又上州妙義山の道にも、百合若の足跡矢の跡とてあり、此外にも大太ぼっちが足跡力業の跡、爰かしこにあり、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[category:代田橋|たいたはし]]&lt;br /&gt;
[[category:紫の一本|たいたはし]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>木田沢ダイタ</name></author>
		
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